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こんなものがあるから
スズは涙が止まらないまま、修一に肩を抱かれて楽屋に戻った。
修一は泣き止まないスズを相手に、ペットボトルを手に取ったり顔を覗き込んだりと忙しい。
「水いるか? 大丈夫か?」
「あの、修一。話が……」
スズの言葉を遮るように、化粧台の上に置いていた修一のスマートフォンが鳴った。
「司からだ」
修一は席を立ち上がり、電話を耳に当てながら外へ出て行ってしまう。
声を上げる暇もなく、引き止めようとしたスズの手が虚空をかすめた。
一人取り残されたスズは静寂が怖くなり、ポケットから白い粉の入った袋を取り出した。
この粉ひとつで修一のアーティスト生命が絶たれる、そんな恐ろしいものを持って、小倉の言葉を実行しようと葛藤していた数日間の自分にスズは震え上がった。
(こんなものがあるから……)
スズは立ち上がり、白い粉をゴミ箱に捨てようとした。
その時、飛び上がるほど乱暴にドアが開いた。肩を震わせながら振り返ると、端末を片手に持ちながら鬼の形相をした修一が、息を荒げている。
まだ通話中らしいスマートフォンから司の声が聞こえてきた。
『おい美代。美代、聞いてるのか?』
だが修一は乱暴に画面をタップして通話を終わらせると、スズをキッと睨みつけた。その視線が、今まさに捨てようとした粉の袋に向く。
「……何をしようとした?」
飛びかかられて、腕を捻りあげられた。
「しゅ、修一、痛い!」
「おまえ、小倉の半グレグループの手先だって、本当か?」
耳元で告げられた冷たい声に、スズは固まった。恐る恐る、修一の顔を見上げる。
「なん、で……」
「司が調べた。興信所はそういう場所だ」
スズは、修一と司が二人でしていた会話を思い出した。
──向こうから事情を話すまで待ってやる器の広さ、見せたっていいんじゃないのか。
つまり修一は最初から、司にスズの身辺を調べさせていたのだ。自分に内緒で。
「なんで……修一……」
「本当なんだな?」
腕を捻りあげる力が強まる。力に反比例するかのように、修一の目元が怒りから泣きそうな子供のように歪んでいく。
「小倉の命令で? おまえも俺を、嵌めようと……?」
「ち、違う!」
スズは今まさに、修一に助けを求めるつもりだった。小倉から逃げたいと。
だがそう弁解する前に、修一はスズを楽屋から出そうと腕を引っ張った。
「出ろ」
「しゅ、しゅうい──」
「外に出ろ」
もはや声を声と認識できないくらい押し殺した声が、スズの胸を突き刺す。
社長の元へ行って仮契約を白紙に戻すつもりなのかもしれない。
いや、このままスタジオを追い出されるかもしれない。
だがもし抵抗したら……暴力の気配にスズの体が竦み上がった。
(殴られる……!)
スズはありたけの力で修一の手を振り払い、楽屋の外へ飛び出した。
「スズ!」
叫びを背中に受けながら廊下を抜け、スタジオの裏口から外へ飛び出す。
路地をでたらめに走る。
一瞬にして、全てを失った事実を悟った。
裏切ってしまった。今度こそ嫌われた。家にももう戻れない。修一に助けてもらえない。小倉からの命令も失敗した。
目に痛いほどの夕日がビルの向こうに沈んでいく。日の当たる場所がなくっていく。
スズは足元が地盤ごと崩れ落ちる感覚を味わった。
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