オレに優しくしてくれる人

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オレに優しくしてくれる人

 女神のことを思い出していたら、飛んできた拳をうっかり避け損ねた。  殴られたスズは雑巾のようにべしゃりと地面に倒れ込む。粗末な服が水たまりを吸い込んで汗と混じり合い、太ももから臀部にかけて湿った不快感を覚えた。  この倉庫裏は小倉(おぐら)という人間が率いる半グレ集団の拠点で、スズを殴ったのはその下っ端たちだ。一人は髪がツーブロックで、もう一人は頬に傷がある。  スズは腹をすかせて夜をさまよっている間、彼らから仕事を頼まれていた。だが猫の姿では仕事が出来ず、こうして罰として殴られているのだった。  元はと言えば、半グレたちがまともなご飯一つもくれないから約束をすっぽかさざるを得なかったのだが、そう主張したところで許してもらえなさそうだ。  スズが上体を起こすと、男二人がその場にしゃがみ、顎をしゃくりながらこちらを睨みつけてきた。 「半畜生の飼い猫のくせに、文句あんのか? あ?」 「こっちが仕事振ってなきゃおまえは今頃、兄貴みたいにおっちんでるぜ。そんな俺たちをないがしろにしてていいのかなぁ?」  ここで泣いたり喚いたりしたら、さらに殴られることは明白だ。スズはとっさにへらへらした笑みを貼り付けて、相手を媚びた上目遣いで見る。 「約束をすっぽかしちゃって、ごめんね? どうしたら許してくれる?」  下っ端たちは下卑た表情をお互いに突き合わせた。だが具体的な落とし前を命令されるより先に、傷男のスマートフォンが振動したようだ。電話に出た傷男は気持ち悪いほど下手な声で「はい、はい」と言ったのち、ツーブロックに声をかける。 「おい、呼び出しだ」 「ちっ。次逆らったりしたら、わかってるよな?」  二人はそう言い捨てて去っていった。  倉庫裏に取り残されたスズは立とうとしても立ち上がれず、地面の水たまりに映るげっそりとした自分の顔を眺めているしかない。 「ひっどい顔……誰にも見せられないや」  痛みを庇いながら立ち上がり、濡れてしまった服の埃や、股から伸びた尻尾についている枯葉を剥がし取る。  殴られた顔がガンガンと痛い。お腹がすいて全く力が出ない。こんな生活をいつまで続ければいいのか……下向きになりかけた思考を、スズは首を横に振ることで追い払った。 「だめだめ。お母さんがいつも言ってた。獣人たるもの、常に前を向いていなさいって」  自分はこれからも食べ続け、生き続けなければならない。そのためなら、半グレの飼い猫役でもなんでもするつもりだ。  とにもかくにも顔をつんと上げると、視線の先にあるビルの向こうに、夕日が沈もうとしていた。 「……あの人に会いに行こう。そうしよう」  スズは獣人から灰色猫の姿に変化した。ぐんと体が縮まり、五本の指は肉球に、身体は灰色の毛並みに変わる。服を置いていくことになってしまうが、もともとボロのようなものだから未練もない。 (あの人にはオレの言葉が通じてるみたいだし、かわいがってもらうなら、げっそりした獣人姿より猫のほうがいいよね)  夕日が沈む中、猫姿のスズは住宅街に向けて歩を進めた。  ──この現代社会には、人間と獣人がいる。  獣人の存在は太古の昔からそこにあって、人間たちとは極力交わらず息を潜めて暮らしていた。だが、自然が人間の手で失われていくにつれ共存を余儀なくされ、大きな戦争の後、日本政府が勝手に獣人へ『人権』を与えたのだという。以後、獣人は社会に溶け込もうとしているが、人間たちの目は冷たかった。  スズの母親も人間と結婚したはいいけれど、兄とスズを産んだ後、家を追い出されてしまったらしい。母はひっそりと息子二人を育てたが、過労が祟って早死にした。その後は兄がスズを育ててくれたが、「仕事に行ってくるね」と言ってスズの頭を撫でて出ていったきり、帰ってこなかった。聞けば相当危険な仕事に手を出していたようだ。  一人で生きていくことを余儀なくされたスズは、兄がいたグループから仕事をもらうようになった。それが小倉の率いる半グレ集団だ。  スズは小倉とかいうリーダーにまだ会ったことがない。下っ端たちですらスズを奴隷のように扱うのだから、会ってしまったら二度と日の当たる場所には戻れないのではないか。そんな暗い予感から、会う機会をのらりくらりと躱している。 (オレに優しくしてくれるのは、やっぱりあの人だけだ)  美代(みしろ)修一(しゅういち)というのが、あの人の名前らしい。  スズは初めて修一に会って以来、猫の姿でたびたび彼の元へ通い詰めており、名前もすっかり覚えていた。
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