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04 少年と少女[後編]
突然の遠慮のない足音が微睡み始めていたアユムを現実の世界へと引き戻した。「誰だ」と思うよりも先に体が真っ先に反応する。この突然の来訪者が善良な人間だとは限らない。
いつでも立ち上がって逃げられるように体勢を整える。昼といえども電気も通っていない家の中は暗い。目を凝らして入り口の方を見つめる。
――逆光でよくは見えないが人がいる。
それを見てアユムは安堵してその場にへたばった。何故ならそれはどう見ても自分と同じくらいの背丈の子供にしか見えなかったからだ。
自分と同じくらいの子供に親近感を抱くことはあっても警戒する必要はない。だからアユムは入り口で佇んでいる相手に声をかけようと思った。
だがアユムが声をかけるよりも先に動いたのは相手の方だった。腰の右辺り……ポケットだろうか。そこから何かを取り出し右手を突き出す。そして一言。
「これ、何?」
「へ?」
アユムの視力は決して悪くない。だが幾らなんでもこんな暗い中で、しかも遠くから、その上、手の平に乗るくらい小さな物を見せられてもそれが何か分かるはずがない。
だからこの返答も当然のものだった。相手は首を傾げて暫く考えているようだったが、何故、その返答になったのかを理解したのか顔を上げてゆっくりと二度頷いた。
アユムにはその様子が「仕方ないなぁ」と言っているように見えて、少しつまらない気持ちになりさっきまで浮かべていた笑顔を曇らせる。まぁ、それも仕方がない。実際、相手は「仕方ないなぁ」と思っていてそれをそのまま態度に出したのだから。
アユムの気持ちもお構いなしに相手はずかずかと自分の方に向かって歩いて来る。その遠慮のない姿が更にアユムをつまらない気持ちにさせるのだった。
その気持ちは相手が自分と同じくらいの歳の少女だと分かってもそう簡単には拭えなかった。そんなアユムの心情を知ってか知らずか少女は右手を突き出して一言。
「これ、何?」
さっきと同じ言葉だった。もしその手に乗っていた物が何か面白い物だったならアユムのつまらない気持ちも少しはマシになっていただろうが、その手に乗っていたのはただのガラス玉で別段面白い物でも何でもない。
ため息をついた後、ふてくされた顔で答えた。
「見れば分かるだろ」
「これ、何?」
間を入れずさっきよりも強い口調で聞いて来た。対してアユムは嫌味のつもりで、もう一度ため息をついて「仕方ないなぁ」という表情を作って答えた。
「……それはビー玉」
声色にも仕方なさを込めて。だが、実はこれは本当に仕方がなかったのだ。少女はかなりしつこい。教えなかったりはぐらかしたりしたら「これ、何?」と何度でも聞いて来るだろう。それはアユムにとっても面倒くさくて避けたいことだった。
だが、少女は再びアユムの神経を逆なでする言葉を口にした。
「ビー玉って何?」
苛つくアユム。しかし相手に合わせて向きになっても仕方がない。自分も子供だが相手よりは大人だろう、と自分を落ち着かせてアユムは答えた。
「だからビー玉だって」
落ち着いているようで落ち着いていない苛立ちが含まれた返答になった。
それもそうだろう。ビー玉のことなんて詳しくは知らない。だからビー玉だとしか答えようがないのだ。
更に突っ込まれた時、他にどう答えれば良いのかアユムは悩んでいた。
「ビー玉、なんだ? ……ビー玉かぁ。ねぇ。これもっとないの?」
「へ?」
更に突っ込まれるかと思ったが予想外の返答に呆気に取られた。
「だから、これ、ビー玉。ビー玉、もっとないの? って聞いてるの」
「いや、そんなの結構どこにでもあるし、ラムネ買えば良いだろ。中に入ってるし。はい。答えた。もうどっか行けよ。……大体、何でオレなんだよ。他の奴に聞けっての……」
最後の方は独り言のつもりだった。
「だってこれ、あんたが捨てた瓶の中に入ってたんだもん。こういうのは捨てた本人に聞くのが一番早いでしょ?」
アユムにとって伝えたかった『どこにでもある』『ラムネ買えば良いだろ』は無視されて、どうでも良い最後の独り言だけ相手に伝わってしまったようだ。
それがまた少し気に食わなかったが、それよりも何かとても引っかかるようなことを少女が言ったような気がしてアユムは俯いて考え込んだ。
「……オレが、捨てた、瓶? さっきの、ラムネ?」
ここへ向かって歩いていた時に飲んでいたラムネのこと、そして、足を止めた時に空から降って来たラムネの瓶のことを思い出す。
「あれがラムネなんだ。あんた、もっと持ってないの? 一個持ってたんだからもう一個くらい持ってるでしょ?」
伝えたかったことはちゃんと伝わっていたらしい。しかし更に無茶苦茶なことを言って来たが考え込んでいるアユムの耳には少女の言葉は聞こえていないようだった。
少女は手の中にあるガラス玉……ビー玉を見つめながらアユムの返答を待った。
「……オレが捨てた瓶をこいつが拾ったってことは、まぁ、どっかで見てたんだろうな。オレが捨てたのを。これは、オレが気付かなかっただけで。うん。それは良いとして何であれが空から降って来たんだ……?」
アユムにとっては全て独り言のつもりだったが少女はその全てが自分に投げかけられた言葉だと受け取ったらしい。少女はアユムに視線を向けて問いに答えた。
「ああ、あれ、あんたの居たとこに落ちたんだ? 空から降って来たのはおかしいことじゃないよ。あたしが投げたんだもん」
「いや、投げたからって、オレが捨てた場所からあそこまでよくは覚えてないけど距離があったはずだし、そんな、空から、こう、真っ直ぐに俺の前に降って来るなんてことないだろ」
独り言だったのがしっかりと会話になっている。
「あるよ」
「いや、ない」
「ある」
「ない!」
「ある」
「なーいー!」
「ある」
「……」
「あるよ」
「分かった、分かった。ああ、分かった。あるってことにしとくからどっか行けよ」
ひらひらと手を振ってどこかに行けと促す。だが少女はどこへも行こうとしない。自分が正しいと言わんばかりに真っ直ぐとアユムを見据えていた。
その視線から逃げようとアユムは顔を逸らすが、顔を逸らしたところでその真っ直ぐな瞳からは逃げられなかった。
「アユミ」
「え?」
一瞬、自分の名前を呼ばれたのかとアユムは思った。だが微妙に違う気がした。
「あたしの名前。こいつじゃない。アユミ。分かった? アユミだよ、アユミ」
「アユ、ミ?」
「そう。アユミ」
今までものすごくつまらない気持ちだった。何だか面倒くさそうな奴だし、訳の分からない奴だし、さっさとどこかに行って欲しいと思っていた。関わり合いたくないと思っていた。
けれど少女の名前を聞いただけで、そういった感情と違うものが芽生えていた。そう。最初にその姿を、自分と同じくらいの子供の姿を見た時に生まれた親近感。
「……アユム」
「アユム?」
「そ。狐塚アユム。オレの、名前」
「似てるね。あたしの名前と」
アユムが持ったような親近感をアユミもまたアユムに対して抱いていた。
「似てるな。オレの名前と」
アユムとアユミは互いに笑い合った。
そこには言葉はなくただ同じ想いだけがあった。
これが少年と少女の出会い。
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