第33幕第3場「手の届くところ」

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第33幕第3場「手の届くところ」

 ――――夢を見ていた気がする。穏やかな、春の陽だまりのような。光に滲みる目を擦り、瞼を押し開く。  鎧戸の僅かな隙間から差す陽が、目の前のテーブルの(おもて)に降り注いでいた。斜めに倒れた光の柱の中で、卓上時計の二本の針が静止している。  サイマンは瞬きを繰り返した。ゆっくりと身を起こすと、毛布を引き摺り、両足をソファの外へ滑らせる。  後ろ髪を指で梳きながら、習慣に従って無意識に、もう一方のソファへ視線を移す。そこでは友人がクッションを枕代わりにして、すぴすぴとよく眠っているはずだった。  ソファの上に撓んだ毛布が、空の巣になっている。サイマンは寝起きの目を瞠った。 「……」  友人の起床が早いのは初めてだった。ようやく起き伏しの正常なリズムが身についたのであればよいが、サイマンには彼の所在がすぐさま案じられた。  目に、耳に、大して広くもない居間の情報が水のように流れ込む。彼の姿を求めて――格子の合間に磨りガラスが嵌め込まれた戸の向こうから、微かな物音が聴こえてくる。そして、隙間から漏れてくるのだろう、何かが焼けるような香ばしい匂いが漂っていた。  コート掛けから丈の長いカーディガンを取り、寝巻きのシャツの上から羽織りながら、サイマンは扉に近づいた。  掌の中で軽い音を立てた扉を引き開ける。  途端、肌寒い空気と共に、機嫌の良い歓声が上がった。 「サイマン、おっはよー」  シャボンと薔薇の香りが、鼻腔をくすぐる。  出し抜けに飛びついてきた年上の友人に軽く押し戻されて、片足が居間に戻る。ガウンを通して伝わる、まるで仔猫のような温もり。その熱を確かめるように、思わず両肩を抱き止める。  サイマンの咄嗟の反応と少し驚かされた表情を見ると、グノーズは肩を竦めて笑った。肩に溢れる濡れた髪が、窓から差す朝日に煌めく様は、湧水の清い流れのようだった。  早起きなんて珍しい。そう思いながら、サイマンは安堵のために息をついた。 「湯冷めするぞ。ほら、火から離れるなって」 シャワーの後だと見て取って、サイマンはカーディガンを彼の肩に被せた。  グノーズは猫のように軽々と身を翻して、足音を立てずに焜炉の前に戻った。床に置いてあるバスケットへと手を伸ばし、卵をふたつ取り上げると、もう片手に持ち上げたスキレットの端で軽く打つ。器用に卵を割り入れて、小さなラックの上に置いてあった木べらでくるくると混ぜながら、背筋を反らしてサイマンを見た。 「大丈夫、甘くしないよ。コーヒー淹れる?」 サイマンは彼の目から手元へ、そして焜炉の上で湯気を揺らしているポットを一瞥した。 「うん、オレやるよ。……見慣れない光景だな」 後ろ頭をちょっと掻いて、サイマンは指のあいだに髪を通した。  グノーズはスキレットを傾けて中身を見せながら、へへへ、と笑う。ふわふわといい具合に空気を含んだスクランブルエッグは、最初に彼に作り方を教えたレシピだ。  サイマンは小首を傾けて答えると、足を居間へ向けて洗面所へ向かった。
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