第33幕第3場「手の届くところ」

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 学士院の卒業式を欠席して――証書だけはあとで回収に行ったが――ベルントリクスの研究都市でグノーズと一緒に生活するようになってから、二週間余り。組織への入団を目前に控えたサイマンは、弟を迎えに帰宅したのを最後に自宅に戻らなかった。  両親と顔を合わせたくないというだけの理由なら、犬猫の面倒を見に一度くらい帰っただろう。けれど、研究都市にはグノーズがいる。なまじ常に隣にいるようになるとかえって離れ難く、彼と共にいない時間が落ち着かなくて仕方がない。  綺麗な夢から醒めてみると、すぐに彼の瞳が見れた。人を嘲うかのようにこの地上を俯瞰している太陽がどんなに高く眩しくても、その瞳は変わることなく、花紺青の闇夜に染まっている。それを眺めていると、まだ夢を見ていても許されるように感じた。  いや、感じた、というより、それは「勘違いした」と換言するべき感覚だ。現実逃避だと、まるで他人事のように明確な自覚がサイマンにはある。煩わしい身に起こる一切を市壁の外に棄て置いてきたことに危機感がないわけではないと、そう自分に言い聞かせながらも、いっそこのままでいいような気がした。  グノーズの居室は、風呂はあるのに厨房はないという謎の欠陥住宅である。ここで煮炊きをするためにはエントランスホールに焜炉を用意するしかあるまいと、サイマンは住人の意見を半ば無視して小さな焜炉を調達してきた。  身支度を済ませて居間に戻ってくると、テーブルの上を整えて、二人揃って朝食の席に着く。  それぞれの平皿の上にスクランブルエッグのサラダ添え、トーストの隣にはジャムの小瓶を置いて、それからサイマンのほうにはコーヒーが、グノーズの手元にはメイプルシュガーを溶かした甘いホットミルクのマグカップ。  昨日までは友人から毛布を剥ぎ取って引き摺り起こしていたのだが、さて今朝に限って、彼は一人で食事の支度をしていた。  自活への兆しと捉えれば肯定的な話なのだが、そんな気がしない。トーストにマーマレードジャムを塗っているグノーズを、サイマンは細やかな眼差しで窺った。 「寝辛かったのか?」 グノーズは大きな瞳をきょろりと寄せると、首を軽く傾けた。 「フツーに寝てたよ? なんで?」 「いやさ……珍しいなって」 歯切れ悪く唸って、グノーズを見つめる。そんなサイマンを見返したまま、彼はトーストの角を齧った。必然的に彼は黙ったわけで、それ以上の返事はなかった。  二人して目を見合わせているうちに、グノーズは動かしていた顎を止め、聳やかした肩のあいだに顔を埋めるように俯いて、何やら含み笑いをはじめた。薔薇の柔肌よりもなお甘い、果実色に膨らんだ弓形の唇に、ジャムの艶が微かに残る。  サイマンは眉間に小の字を刻んだ。するとグノーズはさらなる笑いの衝動に駆られて、椅子の背から体を乗り出して肩を震わせた。 「……」 左手で皿の所在を確かめながら食べかけのトーストを置くと、同じ手でマグカップを取り上げる。  食事をミルクで喉へ流し込んで、グノーズは再び顔を上げた。窓から差す優しい光の中で、翼のような睫毛が金色に輝く。その翳に充ちる夜色の睡眸と調和して、まるで星空のようで、見つめていると吸い込まれそうな気になる。 「なぁに、サイマン。心配した?」 「……なんだよ」  笑いながら訊かれると、サイマンは気恥ずかしくなって彼を睨んだ。  グノーズは微かに声を立てて笑った。血の蒼さが透けるような手の甲で、目尻に浮いた涙を拭う。 「ごめんごめん。違うんだよ、可笑しいんじゃなくて」 「だったら笑うな」 「うん、なんか、勝手に笑えるんだよ、ごめん……。あんまりないからさ、心配してもらったこと」  表情を緩めたサイマンを見て、グノーズは片手をひらりと振った。悪戯好きな妖精みたく、肩を縮めてくすくすと笑う。薄紅く上気した頬を肩に擦りつけるようにして首を捻り、彼は随分長いことそうしていた。
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