第33幕第4場「帰属」

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第33幕第4場「帰属」

 まだ正式に配属されたわけでないとはいえ、サイマンの行き先はすでに決まっていた。 「サイマンて、また毎日来てくれるのね?」  ふと顔を上げる。白い画布を前に悩んでいたかと思えば、イフェニスはいつの間にかサイマンをじっと見て、首を傾げているのだった。  研修が始まって初めて彼女の部屋に足を踏み入れた時、サイマンはその異様な環境に驚いた覚えがある。絵の具で汚れた床の上に雑然と積まれた画材と、目眩のするようなシンナー臭の中に、蒼白い頬をした美しい少女が住んでいるなどと誰が思うだろう。  今となっては、サイマンはこの小さな世界をイフェニスの内面の表出として捉えていた。 「今更だな」 「だって、冬はいなかったじゃない」  柔らかさの異なる様々な鉛筆を握った両手を膝の上に押し付け、こちらを向いている彼女。サイマンは組んでいた腕を解いた。おもむろに壁際へ向かうと、けして大きくはない出窓の鍵を外し、部屋に春の空気を呼び込む。  たまに換気でもしないと彼女の体に良くないと思ったからである。少女は絵に没頭すると、生活の些事など一切合切忘れてしまうのだった。  きっとサイマンやグノーズが声をかけてやらなければ、彼女はまともに食事も摂らないだろう。捲り上げた袖から伸びる腕は細く、運動神経はいい感覚があるのに滅多に使わない上に、筋力なんぞ立ち歩く最低限しか彼女は持っていなかった。 「去年のは研修だった」 「今は? 帰ってきたわけじゃないの?」  イフェニスは小鳥のような仕草で首を傾げる。学士院を卒業して、どこにも所属していない、何者も頼るものがない今、それこそどこへ“帰る”と言うのだろう。サイマンは不意に途方もない心地に襲われ、つまらないから考えるのをすぐにやめた。 「……入団は来月一日付け。それまではベルントリクスの人間じゃないな、正確には」  なぜそうなったかサイマンにはわからないが、弟のマンヴリックが連れ添うことを条件になら、彼女はやっと街頭を歩くことが叶う。それ以外では例の如くグノーズが規範を犯して彼女を連れ出さない限り、彼女は研究施設に軟禁状態だ。  おかげで彼女には見た目以上に体力がないが、組織にとっては被験者がまったくの健康体でいるのは、逆に不都合なのかもしれない。己の魔力を除いては、彼ら魔力保持者には、組織に抵抗する手段など与えられていないのだ。  闇を閉じ込めたような深い蒼の瞳は、思考と呼ぶにはあまりに体系のない思いつきを巡らして、ぽかんとしていた。状況が呑み込めたのか、楽しい仕掛けの玩具をもらった子供みたいに、不意に嬉しそうに笑う。 「それじゃ、来月になったら“お帰りなさい”なのね?」  夏頃にも一度説明してやったのだが、と、サイマンは思う。念を押すあたり、彼女が何か不安がっている気配はあった。 「お帰りっていうか……」 「……帰ってこないの?」 サイマンが口篭ると、イフェニスの表情から笑顔が消えた。睫を打ち合わせて瞬きする彼女をそのままおくのは可哀想で、しかし理解させるのは手間だ。  サイマンは窓を背に壁にもたれると、できるだけ当たり障りのないように答えた。 「……四月からはもうずっとベルントリクスにいる」 「ずっと? また秋になったら消えちゃう?」 「今度のはない」  イフェニスはようやく満足げな顔をした。前下がりの髪を揺らして、再びキャンバスに向き直る。散々悩んでいたくせに、今度は鉛筆を持ち替えるなり、何の迷いもなくあたりを取り始めた。
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