第33幕第4場「帰属」

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 子供時代のほとんどを過ごした学士院での生活を終え、ベルントリクスへの正式入団の日を待つだけというサイマンに与えられたひと月。その余暇を、彼はグノーズと共に過ごした。  一ヶ月も自宅で神経を張り詰めていられないのも本音ではあるが、この状況にはもうひとつ、サイマン自身が己に課した使命が関わっている。  冬の吐息が残る、覆い尽くすような霧雨の中、橋桁の下で交わした約束――その履行への準備こそがそうだ。  早い話が、サイマンとしては友人に捨て身の副業から足を洗わせたいのだ。「オレがベルントリクスに入ったらやめろよ、それ」、とは言ったが、当のグノーズ一人に任せておくと、そんな約束は果たされる見込みがないことは百も承知である。  それを彼の不誠実のせいなどとは、サイマンは思っていなかった。すべては状況が、環境が、彼らがこれまでに交わしたあらゆる約束の成就を阻んでいるのだ。ただグノーズは周囲が求める方向へ流される以外に振舞い方を知らないから、約束を叶えようと思うとサイマン自身が動かねばならない。  つまり具体的なところ、あの生活感のない部屋に一緒にいることで、グノーズの夜間外出を監視しているのである。  手を引く者があれば引かれるまま従ってしまう彼は、放っておかれると自室になんぞ帰ってきやしない。しかし、さすがに友人を泊めているとなると、大人しく部屋で寝るようになった。  強制と言われれば今は強制かもしれないが、グノーズのためにはこのほうがいいのである。  日頃の不摂生が祟って、グノーズは夜中にしょっちゅう熱を出した。まるでこの世は元より己の肉体にすら馴染んでいない子供だ。昼間になれば元通り笑っているから転身素早いものだが、感心していられる状況ではない。  サイマンには、自分がそばにいなかったこれまでの彼の生活が当然案じられた。共寝する者がなければ、灯りもろくにつけやしない冷えきった部屋で、たった独り、大量のアセチルサリチル酸を喉に流し込み、明け方ようやく熱が鎮まったかと思えば薬物の副作用で昼近くまで昏睡する。そんな破天荒な生活を、彼はおそらくベルントリクスに来た十一の冬から――父親に引き摺っていかれたまま行方知れずになったという、問題の家庭崩壊が起きた約一年の空白を除いて――この春まで続けていたというのだから。  彼の家に上がってからサイマンがまずしたことは、友人を一発叱り付けることだった。もちろん叱りたかったわけではないが。自己弁護の能力もなくしょんぼりと項垂れる彼に指示をして、一緒にランプを灯し、窓を開けて部屋に風を通し、カーテンやラグを春物に替えて。  そして、まともに食事の支度ができるよう焜炉を設置して、“生活”ができる環境を整えた。  彼の部屋には本や新聞もなく、過ごし方といったら風呂に入るか寝るかの二つしか知らない。そんな彼に、簡単な料理から読書の習慣まで、ひとつひとつ教える毎日が、サイマンは意外と嫌ではなかった。  特に気に入っているのは一日の終わりだった。並べたソファを寝台代わりに、床に就いてからも何やら嬉しそうに喋り続けるグノーズの声に耳を傾けるひととき。その声は次第に蕩けてゆき、甘い余韻だけを耳の奥に残して形を失う。  子供のような寝顔だった。サイマンはランプの灯りを消す瞬間、自然と空想する――――彼は別の世界からやって来たのではないかと。地上のことを何も知らずに落ちてきた、迷子の天使なんじゃないかと。
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