小指に愛を託ける

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小指に愛を託ける

 箱の中で自分を待っている番がどういう意味を持つのか。日に日に衰えていく身体とは裏腹に、理一郎の疑問は強くなる。    生命活動の遍歴が反映される?  見も知らぬ、言葉も交わさぬ番に思いの丈を託したところで、新しい個体に記憶がなければ、それを残されたものに伝えるすべはない。  だとすれば、箱に入る者も見送る者も辛く苦しいだけだ。  そんな番など、繋いでいく意味はあるのか。理一郎の思考は混乱していた。  恐らく湊斗も理一郎のことを好いている。けれど、箱が命を決めるこの世界では、理一郎の思いも湊斗の思いも無意味なのだ。  まるで箱に刃向かうかのような己の思考に、理一郎は苛まれている。 「吉野君。今日の会合、少し遅れると先方に伝えといてくれる?」 「分かりました。診察の日ですもんね。喫緊の課題はありませんし、ゆっくり昼食などして来てください。というか、今日はお休みでも良いのでは? 万事手配しておきますし」 「ははは、吉野君にはまるっとお見通しだな」 「榊先生、さては深夜の探偵ドラマ観ましたね?」 「あ、バレた?」  そんな軽い会話が気分転換に丁度良い。理一郎の主治医は、先日緩和ケアを理一郎に提案してきた、つまり、彼の病気はもう治る見込みがないということだ。  理一郎は妻を娶っていない。代わりに榊家を背負える人材と言えば、湊斗しかいない。湊斗へ愛を伝える代わりに、仕事の全てを叩き込むつもりだ。  湊斗をどんなに好ましく思っていても、それ以上の存在感で凌駕してくるこれこそが運命の番なのか。ならば運命を静かに受け入れる方が幸せだ。湊斗への思いに蓋をして。  理一郎はそう考えると、少し気持ちが楽になってきた。そうやって今までの個体も運命を受け入れてきたのだ、きっと。  彼らは(理一郎もまもなく)箱の中で溶けてしまうから、真偽の程は分からないが。 「榊先生、今日は良い天気です。庭でも散歩しませんか?」 「そうだね、吉野君。悪いけど手、貸してくれる?」 「悪いけどなんて言わないで下さいよ。むしろ光栄です」 「ははは、吉野君は相変わらず僕を煽てるのが上手いなぁ」 「僕だけの特権ですから」  湊斗の熱っぽい視線は、縁側へ注意深く降りようとしている理一郎には届いていない。足元のおぼつかない理一郎は、全力で遠慮する湊斗へ半ば強引に全ての立場を譲り終え、ひと息ついたところだ。 「榊先生、綿貫先生の出された修正案なんですけど──」 「吉野君、もう君に全て譲ったんだからね、君が判断しなくちゃ。それと、僕を先生と呼ぶのはやめてくれ」 「先生は先生です、ずっと」 「もう君のものだよ」  庭を散歩しながらそう話す彼らの目の前に、箱があった。薄く色付き始めた桜の木の下。それは優しい色をしていた。 「僕の箱だね」 「榊先生」  理一郎は、このまま榊理一郎を終わらせて良いのだろうかとふと思った。愛しているに蓋をすると決めた筈なのに、いざ箱を目の前にした途端これだ。日和ってしまう自分が情けないな、と理一郎は小さく苦笑いをする。  理一郎は箱へと消える。何気ない会話のやり取りも、メールの履歴も、書類のサインも、湊斗に忘れられたら辛いと思ってしまうのは我儘だと分かっている。  だが、榊の個体としての役目が終わったとしても、何か、何かほんの少しだけ、榊理一郎の証を残したいと思ってしまうのは、やはり女々しいだろうか。 「吉野君、あとは頼むな」 「……はい。お疲れ様でした、理一郎さん」  ──湊斗、最後にそれはずるいじゃないか。未練が残ってしまう。  理一郎は、湊斗の手を借りながら箱にゆっくりと足を入れる。  湊斗、また君に会いたい。心から。そう口に出来たら、理一郎には思い残すことなどもうない。けれどそれは湊斗にとって一番残酷な言葉だから、それだけは言えない。  じゃ、と片手を軽く上げ、理一郎は笑った。  理一郎が最後に小指だけを蓋の外に出していたことなど知らず、箱は静かに、だがしっかりと蓋を閉じた。  吉野湊斗は、榊理一郎の落とし物をそっと拾い大事にハンカチへ包むと、その場を去った。自治体へ連絡をするために。  箱から出てきた半固形物は、ゆっくりと新しい二十代の若者に変わっていく。彼の名前は真白木類。  右手の小指が、欠けている。
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