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湊斗は誰を愛した
類はアルバイトから正式な事務局職員へと採用された。三上と切磋琢磨しながら試験を受け、吉野の秘書的な業務も手伝えるようになった。
経験年数の長い三上に比べたらまだまだ初心者もいいところだが、ウェブ関連なら類の方が得意だ。吉野から、ユニバーサルデザインに関する相談を受けることも増えてきた。
あれ以来類の胸奥には、榊の影がいつも付きまとっている。箱は榊の小指以外全てを溶かし、類を生成した。もし自分が吉野だったら、とてもじゃないが居たたまれないと思う。
──居たたまれない。俺が吉野先生の立場だったら。好きな人を犠牲にして生まれた人間が目の前に居たら。もし吉野先生が箱に入り、その番と顔を合わせることになったら。
そこまで考えて、これじゃあまるで俺が吉野先生のことを好きみたいじゃないかと、類は自分の両頬をぴしゃりと手のひらで叩いた。
仕事人として、吉野先生を尊敬している。榊と類は関係ないと言ってくれて、見込みがあるからとこうして長期の仕事も与えてくれた。家にも米にも困ることはなくなったし、何より自分に自信が持てるようになった。
小指が欠けていても、真白木類はちゃんとここで誰かの役に立っている。誰かのために生きている。
誰のためにだろうなどと考えちゃいけないと、類の細胞のどこか奥の方から聞こえた。
吉野湊斗は、榊理一郎を愛しているのであって、真白木類ではない。間違えてはいけない。類の生きる理由を吉野にしてはいけない。
類は自分にそう言い聞かせる。
──
類の視線が湊斗に注がれていることを、湊斗は知っていた。その視線は、湊斗が理一郎に向けていたものと同じだ。
「吉野先生。歩行に困難がある利用者さんから、移動図書館の要望があるんですが」
「なるほど。どう? 真白木君、進められそう?」
「各図書館にリサーチしたら、ぜひやって欲しいというスタッフさんの声もあって実現は出来そうなんですが、すべての地区を回るのは難しいです。予算にも人間にも限度があって」
「そうだよね。少数案件に回す予算は厳しいよね。そもそも箱による個体の生成過程で、瑕瑾のあること自体が珍しいしね」
「瑕瑾?」
「箱の中を通って魂は形を変えるけれど、基本的にその質量はずっと変わらず受け継がれていく。簡単に言えば、たいがいの人間はパーツが揃っている、ということだね。そのどれもが美しく大切な存在だ。だけど、何らかの理由で僅かについた傷さえ同じように美しいと僕は思う。
真白木君が自治体の人に言われた言葉、僕も同じように思うよ。君は、何にでもなれる。真白い魂に、惜しむべくはほんの少しの瑕瑾。けれどそれこそが君の価値なんだ」
「吉野先生」
「僕は真白木君のようになりたい。最近、そんな風に思うんだ」
湊斗の目尻に優しい皺が寄った。
湊斗は、榊理一郎が箱に入った年齢を二年前に越えた。自分の天寿がどれほどのものかは分からないけれど、そろそろ自分の箱が来るのではないかという予感めいたものを感じている。
身体はいたって健康だし、まだまだやりたいこともあるのだが、それは恐らく三上と類がきっちりあとを継いでくれると思うから、湊斗の心は穏やかで、いつその時が来ても良いような気がしているのだ。
(榊先生……理一郎さんも同じような気持ちだったのかもしれない)
あの頃、確かに湊斗は理一郎を愛していた。助けの声を上げられない人の代わりに、命を削って声を上げる姿を支えたかった。家族を作らない理一郎の家族になりたかった。
番は箱の中にいると世間は言う。けれど、理一郎と湊斗と類、そしてやがて来る湊斗の番。
彼らの魂には、番すらも超えた強い結びつきがあるように湊斗は感じた。この関係性こそが本当の番なのではないか、と。
湊斗は胸ポケットに仕舞ってある折り畳まれたハンカチを取り出し、干からびた小指を大事そうに摘み上げた。
番とは何か、を考えるきっかけになった理一郎の小指を、湊斗はそっと自分の唇に触れさせると、再びハンカチで包んだ。
記憶も受け継がれず、法則性もないと思われていた箱と個体の関係に、理一郎の小指は新たな可能性を与えた。
それは、記憶の残らない番を作り出す箱に、理一郎が少しだけ抗った証なのかもしれない。
形や質量を変えることなく受け継がれていく命。理一郎のことだ、箱の運命を変えようとまでは思わなかったに違いない。
そんな理一郎に落とし物をさせたのは──湊斗だ。
理一郎が箱に入ったあの日、湊斗は彼の苗字ではなく名前を呼んだ。同性の、しかも恩師を愛しているなどと言えない立場で、最後に一度だけ贅沢をさせてもらった。
理一郎は、湊斗の呼びかけがきっかけで、自分という人間がいた証を残したいと思ったのに違いない。
今の湊斗にはそれが分かる。湊斗は、類から「湊斗」と呼びかけてもらいたい。理一郎の番だからではなく、類本人からそう呼ばれたいと心から思っている。類が好きだと言いたい自分がいる。
同性の人間を好きになるという、密かに育むはずだった思いを肯定し、受け入れることが出来たのは、理一郎──榊先生のおかげだ。
湊斗は、どうやったら移動図書館の予算を増やせるか、パソコンの前で頭を悩ませている類を、ほんの少し泣きそうな目で見つめた。
数週間後、類は巧みに予算案を立て、すべての地区を巡回出来る移動図書館という計画案を湊斗へ提出した。
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