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 バスの窓から宵闇に浮かぶ海と空を眺める。  一緒に帰ろうというメッセージを最後に、一生は何も言ってこない。いい加減、旭葵が一生を避けていることも分かっているだろう。  肝試し大会の夜の後、一生は何事もなかったかのように振る舞った。けど、今回はそういう訳にはいくまい。  一生は旭葵と話をしたがっている。いつまでも逃げ続ける訳にはいかない。分かってはいるけど、もう少し時間が欲しい。  情けないため息が出た。  バス停に降り立つとすっかり海は夜に飲み込まれていて、冷たくなった海風に旭葵は肩をすくめた。  今日、お婆さんは老人会主催のカラオケ大会に行っている。多分帰りは遅い。明かりのついていない家の門をくぐろうとしてギクリと足が止まった。  暗い玄関の前に一生が立っていた。 「お、驚かせるなよ一生」  一生と会った時の最初のセリフをぐるぐる考えていたが、結局それらのどれでもない言葉を咄嗟に発することになった。 「今までどこに行ってたんだよ」  低い怒気を含んだ声だった。薄暗い中でも一生の怒りに満ちた眼光が分かる。  これがラストダンスでキスを交わした相手に取る態度か?  旭葵は後夜祭のあの夜からずっと自分のこと以上に、一生のことを考えていた。  次に会った時一生は自分に謝ってくるのか、または全てなかったことにしようとするのか、それとも、ちゃんと告白をしてくるのか。  まさかこんな怒りをぶつけられるとは夢にも思わなかった。あんなふうにキスされて、怒るのだったらそれは自分の方だろう。それとも一生のメッセージを無視し続けたことがそんなに頭にくるのか。状況が状況なんだからそこは少しぐらい旭葵の心境を察してくれてもいいではないか。  想定外すぎる一生の態度に旭葵の方でも軽い怒りが湧いてくる。旭葵は一生の横を素通りして玄関の鍵を開けた。 「隼人とラーメン食べに行ってたんだよ。今日は婆さん老人会でいないし」  一生が隼人を嫌う理由が今ならよく分かる。旭葵を好きだという気持ちを隠さない隼人。隼人は一生にとっての恋敵だったのだ。隼人と一緒にいたと言うと一生の機嫌がもっと悪くなるのは分かっていた。が、かまいやしなかった。  旭葵が家に入ると一生も黙ってそれに続く。 「いつからだ?」 「何が?」  そのまま廊下を進み、居間の電気をつけようとすると腕を掴まれる。 「いつからあいつとそんなふうになった? なんで俺に嘘をついた?」 「いったいなんのことだよ。つか手、痛いんだけど」 「あの日、俺の前にあいつと……」  一生の手から逃れようとして逆に捻り上げられ、もっと動けなくなる。 「あいつとどこまでしたんだよ」 「は? さっきから何のこと言ってるんだよ。ちょっ、マジで手痛いってば」 「俺には言えないことをしてるんだろ」  掴まれていた手が解放されたかと思うと、思いっきり突き飛ばされ、旭葵は畳の上に転がった。 「痛ってぇ、一生、マジでふざけんな」  居間の入り口を塞ぐように立つ一生を旭葵は睨んだ。廊下の電気が逆光になって一生が黒い大きな影に見える。  起き上がろうとしたところを馬乗りになられ、再び畳の上に押し倒される。明かりのついていない居間の畳の上で揉み合いになる。  今まで一生と遊びでは数知れず、喧嘩して本気でやりあったことも何度かある。けれど今日の一生はいつもと全く違った。  喧嘩した時でさえ、一生の旭葵の攻撃を交わす手は優しかった。攻撃はせず防御だけの、その防御でさえも、旭葵を傷つけまいとする配慮が伝わってくるような交わし方だった。喧嘩しながらも一生の根底にある旭葵への温かい想いが伝わってきた。  けれど今日の一生からは怒りがはっきりと感じられた。苛立ちが凝縮したような怒りが乱暴に旭葵を組伏せる。旭葵を殴りこそしないが、旭葵を征服しようとする力に容赦がなかった。
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