1.出会い①

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1.出会い①

 1989年9月――。  その年の1月、天皇陛下が崩御し、昭和が終わった。  サンフランシスコ近郊、ナパ市にあるタウンホームのテレビで、NHKの国際放送がニュースを伝えた。 〈一昨年の10月から昨年8月にかけて、都内で発生した3件の連続強姦殺人事件の容疑者として指名手配されている北村海星(きたむらかいせい)容疑者二十三歳が、昨年8月の犯行後、海外逃亡した可能性があると、警視庁が発表しました。逃亡先はアメリカ合衆国内とみられており、警視庁はFBI連邦捜査局に協力を要請しました〉  タウンホームは、二軒の家をくっつけて一棟にした二階建ての「家」で、一階部分にはそれぞれ二台分のガレージもある。男の指がリモコンを操作し、テレビの画面がVHSのビデオに切り替わった。 〈――春日局(かすがのつぼね)〉  大河ドラマのタイトルがテレビ画面に映る。 「あなた、明日ゴルフ?」  夕食の皿を食洗機にセットする皆川彩花(みながわあやか)が夫に声をかけた。 「ああ。いつものメンバーだから、その後は麻雀だな」  ワインの本場で日本酒を造ろうという飲料メーカーの意欲的なプロジェクト営業担当として浩一はナパに派遣された。赴任して一年、土日のどちらか、或いは両方、夫の浩一は勤務するSAKEワイナリーの同僚とゴルフに出かける。誘われれば断れない性格なので仕方ないと彩花は思っていた。  パブリックのゴルフ場は日本に比べると格安だそうで、金銭的な負担は少ない。ゴルフの後はだいたい麻雀だが、こちらも仲間内なので負けてもたかが知れている。帰宅は深夜になることも多く夕食はいらないが、彩花にとっては休日になるので不満はなかった。 「じゃあ、ビデオは明日返しに行くから、大河見ちゃってよ」 「いま、つけたところだよ」  赴任当初、中古で買ったトーラスは浩一が通勤で乗っていくので、彩花の行動範囲は徒歩圏内のスーパーマーケットくらいだった。余りに退屈で、免許を取り、貯金をはたいて中古のチェロキーを買った。ビザの関係でアルバイトでさえ働くことは許されないが、遊びに行くのは自由だ。  夫がゴルフへ行く週末、彩花は一人でサンフランシスコのダウンタウンへ出かけるようになった。日本のテレビを録画したビデオをレンタルするのがメインの目的だ。夫が仕事へ行く平日でもいいのだが、終末に独りで自宅に残されるのが厭で、こうなった。  出かけるときはだいたいTシャツだが、たまにブラウスを着る。ジャンバーやカーデガンなど、季節によって何か羽織ることもある。履き物はサンダルであったりスニーカーであったり気分次第だ。変わらないのがブルージーンズ。キュートなヒップラインと締まったウエスト、そこから伸びるほっそりした脚に自信があるから、学生時代から吸いつくような細身のジーンズを好んで穿いた。 ――明日はダウンタウンだ。  颯爽と街を歩けば、追いかけてくる視線がいくつもある。片づけを終えた彩花は、『乾杯』を口ずさみながらシャワーを浴びた。そのままベッドルームへ行き、一週間前にダウンタウンの紀伊國屋で買った『十角館の殺人』を開く。  赴任したばかりの頃は、こうやって本を読んでいるとよく浩一に襲われたものだ。感触が気持ち悪いからと、浩一はコンドームをつけるのを嫌がった。裸にまとったバスローブを剥がされ、強引に挿入される。 (なんだか、レイプされているみたいだ……)  荒々しい行為の果てに浩一は勝手に(たかま)り、離れ、ベッドサイドに立って彩花の頭をつかむ。求められるままに突き出された欲望を愛撫し、堰を切った濁流を飲まされる――。  一方的過ぎる行為に、彩花は少しずつ疑問を募らせた。それが伝わるのか、夫の扱い方が、いっそう、ぞんざいになっていくようでもあった。  S女子大のテニスサークルに入っていた彩花は、一年生の最初の合コンでM大学のボート部だった二学年上の浩一と知り合った。勢いに押されるまま交際を始め、バージンを捧げ、大学を卒業して二年目で結婚した。  就職した出版社では女性誌の編集部に配属された。雑用係のようなものだったが、いつか、一人前の編集者になりたいと夢を持てた。浩一も子供が苦手だといい、子供を作らない、というのが夫婦の了解事項となった。DINKS(Double Income No Kids)という言葉があるくらい現代的なライフスタイルなのだと信じた。だから、放たれたものを口で受け止めることは義務だとさえ思った。そして、満足した夫を横目に、彩花はシャワーを浴び、オナニーし、換気扇の下でセーラムのメンソールを吸った。  赴任して半年ほどで、そんな夜が変化してきた。徐々に回数が減り、この三ヶ月、セックスはない。
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