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1.出会い②
彩花にすれば、おいしくもない液体を飲まされなくなっただけで、自らの行為で満足を得るのに変わりはない。ただ、誰にも触られない肌の火照りが寂しいと感じることが増えてきた。
ならば、自分から浩一を誘えばいいじゃないか――。
真剣に考えたこともあるが、結局、言いださぬまま時間は過ぎた。勇気がなかったわけではない。浩一に接していると、その気がなくなってしまうのだ。
ひょっとすると、自分は夫を愛していないのではないか――。
平日の日中、独りでコーヒーを淹れる時間にそう思うようになった。
飲料メーカーに就職した夫が海外赴任するなど、全く予想していなかった。アメリカで生活できると彩花も有頂天になり、希望通りに就職できた出版社を辞めてついてきた。
それでよかったのだろうか――。
夫の赴任予定はEビザの有効期間である五年間だという。残りは四年もある。日本に戻るときは三十歳だ。
時間を無駄に浪費しているだけではないのか――。
そんな葛藤を忘れて過ごせるのが、ダウンタウンで過ごす短い時間だった。
*
翌日、土曜日――。
パソコンも携帯電話もない時代だけど、サンフランシスコの空は呆れるほど青く、坂を上るケーブルカーは楽しげで、誰一人うつむく者などいやしない。
日本語のレンタルビデオ店から五分ほどの距離にあるパーキングに、いつもどおりチェロキーを駐車する。Tシャツの胸を張り、ジーンズの脚が伸びやかに踏み出し坂を横切る。レンタルビデオ店のドアを開けると店内には何人かの客がいて、日本で録画したテレビドラマや映画のビデオテープを選んでいた。
(あれ? 新しい店員かな?)
一週間前に借りたビデオをカウンターで返却する。カウンターの若者は彩花を見て、一瞬、戸惑うような表情を見せた。去年流行語大賞になった「しょうゆ顔」だ。
(若者君、あたしの魅了にドキッとしたかな?)
彩花は軽く微笑んでみせた。
「ありがとうございます」
(……そんなことないか。彼から見れば、きっとあたしは『おばさん』だ)
痩せ型で背が高く、やや猫背――。彩花は一週間前のビデオを返却し、店内の棚から今週の分を選び始めた。
連続ドラマは《春日の局》、《青春家族》、《同・級・生》、《あの夏に抱かれたい》。
(あった!)
昨年公開された《となりのトトロ》のビデオがあった。テレビで放映したものを録画したのだろう。
(正規版が売り出されたら必ず買います!)
そう言い訳しながら手を伸ばし、ゲットする。
いつの間にか、店内に他の客はいなかった。
「五本ですね、15ドルです」
やはり、心地よいハスキーボイスだ。
「あの――」
しょうゆ顔の、やや細い目が真っ直ぐに見ていた。
(なんだろう、このデジャブ感……)
「はい?」
後から思えば、この瞬間、視線は既に抱き合っていたのかもしれない。
「これ、今戻ってきたばかりなんですけど、面白いですよ」
店員はカウンターの下から一本のビデオを出した。タイトルは《異人たちとの夏》。前年に公開された映画らしいが、ラベルを見れば、テレビ放映を録画したか、映画館で盗撮したか、どちらかだとわかる。
「ちょっとホラーです」
「ホラー? 独りで観るのは怖いな」
「お独りなんですか?」
「夫は連ドラ専門だから」
「じゃあ、ぼくのアパートで観ます?」
声が、音のない空間に滴となって落ちた。夫がいると宣言したのに、完璧に無視されてしまった。その声は無機質な地面で爆ぜ、細かな飛沫となった。
我に返ると、すぐそこに悪戯っぽく笑う顔がある。とても可愛いと、彩花は思った。
「誘惑してるつもり?」
「違いますよ。ただ、一緒に観ませんかって……」
しょうゆ顔が真っ赤になった。堂々と誘ったくせに、性根はウブらしい。
「キミ、学生さん?」
「はい」
「どこに住んでいるの?」
「ソーサリートです」
ゴールデンゲートブリッジの反対側だ。芸術家が多く住んでいるという。
「へえ、ひょっとして、アーティストさん?」
「自称、ですけど……」
「へえ、かっこいいね」
「よくないですよ。近代美術館の近くで路上販売していたんですけど、画学生の絵なんて誰も買おうとしない。やっとこのバイトにありついて、飢えをしのいでます」
「苦労してるんだ」
「一番の苦労は、自転車の通勤通学ですけど……」
「この坂でチャリンコなの? そりゃあキツいわ」
他の客が入ってきた。無駄話はここまでだ。
「じゃあ、また来週」
「ちょっと待って」
その声には、彩花がもう何年も聞いていない真剣な響きがあった。
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