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週末、ゲイバーやホテル街からほど近い待ち合わせ場所に向かった。日の長い季節だが、もう辺りは薄暗い。
周囲に人は多く、お酒を飲んで早くも二軒目に向かおうとする陽気な集団とすれ違った。集団の中の若い女性が俺をみて振り向く。
こんなところで声をかけられたら面倒だ。俺はバケットハットを深くかぶり直し、目を合わせないようにした。
今日の服装はベージュで大きめのTシャツに、黒い細身のチノパン。初対面の人に会うからといって特別なお洒落はしていない。上手くいけばすぐ脱ぐことになるだろうし。
着いたのは約束の時間ちょうどだ。待ち合わせらしき人は何人かいて、写真のぼんやりした情報じゃすぐに見つけるのは難しい。
その時だ。
(あれ、あの人……なんか知ってる人に似てる気がすんだけど)
ガードレールに腰かけ、人を待ってる風に不安げな表情を浮かべているのは、もしかしなくても……俺の上司じゃ?
いつもの地味なスーツじゃないラフな格好をしているし、眼鏡もかけていないからはっきりと本人なのか分からない。
しかし、そこにいる人たちの中で一番アプリの印象に近い雰囲気を持つのもその人だった。
「ま、まさかな……違うと思うけど、こわ」
その人のところまであと数メートル。立ち止まっていた俺は、思わず数歩後退った。
似てるだけ似てるだけ、と思いつつまだ相手が到着していないことも考えてスマホでアプリを起動する。「遅れる」というメッセージを期待して下を向いていた俺は、目の前に人が立ったことに気づいて顔を上げた。
「ヒ……」
「RYOさん、ですよね?」
百パー涌田課長じゃん!
思わず悲鳴をあげそうになった。
「まてまてまて待ってください。人違いです!え、わ、涌田さん偶然だな〜……こんなところで何を?」
自分でもなにを言ってるのか分からなくなってきた。
テンパる俺をよそに、とりあえずふたりで話せる場所に行きましょう、と手を引っ張って連れて行かれたのは、勝手知ったる俺御用達のラブホテル。
な……なにが起きてる?
○ ○ ○ ○ ○
涌田さんは二人掛けのソファに俺を座らせ、隣に腰掛けた。大きなソファではないから、距離が近い。体全体を俺の方へ向けると、膝同士がコツンと当たった。
「腹を括りませんか」
涌田さんはそう言った。
2歳年上だったはずだけど、面立ちは幼く見えた。眼鏡がないと硬質な印象がなくなって、眠たげな目が警戒心を緩める。
思わず彼の前髪に手を伸ばし真ん中あたりで分けると、確かにアプリの写真と重なって見えた。やっぱり間違いないか……
涌田さんはくすぐったそうに目を閉じて、またゆっくりと開く。黒目がちな瞳が、おれの瞳を捉えた。
「偶然だけど、これもご縁だと思って……仕事のストレス、癒してくれませんか?」
その言葉は俺の中に沁み込んで、じりじりと本能に火をつけた。
上司が、部下の俺に、抱いて欲しいって言ってるのか――
「……えろすぎ」
ストレスを与える一因が部下の自分である可能性については、都合よく気づかないふりをした。
誘ってくるということは、意外だがある程度は慣れているんだろう。据え膳を戴かないなんてもったいない。男じゃないよな?
そう自分に言い聞かせて、俺は立ち上がった。
不安げな目が追ってくる。
「シャワーしてくる」
そう告げてバスルームへ向かった。その時の涌田さんがどんな表情をしていたのか、俺は知らない。
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