冒険譚のラストシーンにて

17/36
前へ
/36ページ
次へ
鳴きやんでもしばらくびりびりと大気が揺れていた。束の間雨が霧散したが、再び細い糸となって降り注ぐ。腹の下をのぞき込むとファリアは耳に手を当てたまま石のように固まっている。 直後、くすぐったくなるあの笑い声を響かせながら、ファリアは手をたたいて喜んだ。おかしな子供だ。再び溜め息をつきたくなるような、ひどく懐かしい気持ちに胸の奥が熱くて冷たくなる。 ”こんな場所までお前ひとりできては、父と母が心配するだろう” わたしは男が長となってから街の方向へ、居場所を山の下層へとずいぶん移動していた。とはいえ、人間の足ではかなり難儀する距離だ。ましてや子供には。会えてうれしい気持ちを素直に喜ぶのは気が引けるし、こんなことが何度もあってはいつか危険な目に遭うだろう。わたしは複雑に思いながら厳しい言葉をかけるが、どうやっても優しい口調になってしまう。 「突然来てごめんなさい。でも、毎日父さんがあなたの話をするものだから、ずっと会いたくて。そしたら父さんたら、昨日初めて、”お前の名前は竜がつけてくれたんだよ。人間の発音に言い換えたんだけど、本当のお前の名は人間じゃ発音できない竜の言語なんだ” って言うの!私、本当の名前をあなたに教えてもらいたくて、我慢できなくて、そのあとベッドを抜け出してここに来たの」 一気に言い終えて、父親似の頑なな表情で、いくらか緊張しながら。ファリアは息を落ち着けてから、おずおずとこう切り出した。 「あのね、あのね、父さんからも、あなたからも、ちゃんとお叱りを受けるから。必ず明日からいい子にするから、私の本当の名前を、呼んでくれる?」 ___一体どこまで、あの男に似るつもりだろう? 叱らねばなるまい事態だというのに、わたしは可笑しくなって笑い出したくなる。雨はまだ止みそうもないし、わたしがこの子を背に乗せて運んでやることも出来ない。もう、どうしようもないのだ。どこかで笑っているだろうかといつも気にかけていた幼子との時間を、わたしは楽しもうと決めた。永い永い孤独な老い先への、小さくも大切な土産のようなつもりで。 “後でたくさん、父親から叱ってもらいなさい。ここへは、お前の父1人で迎えにくるはずだから。それまでここで雨宿りを。___【 】。” 竜の言語は、特別な作用で空気を震わせているんじゃないかと男はある日言っていた。それがどのような作用であるのかは知らないが、この言語が決して何者も傷つけない風を産むことだけは、大昔から知っていた。 ファリアやわたしの下でしとどに湿った草花から、束の間数えきれない水滴が小さくまあるい形のままで浮き上がって、ファリアの膝ほどの高さで細やかに揺れた。わたしの巨躯が作る影の中で、水滴たちは健気なほどに、きらきらと星のように輝いている。「水が揺れる音」というものを表現することは難しいが、それは朧気でどこまでも優しい。たった一瞬巻き起こってそして落ちていくのを見ながら、これが雨の中でつくる一番美しい景色だとわたしは思うから、ファリアの記憶に刻まれていつの日か心を照らすような瞬間であればいいと、願った。 ファリアはずいぶんと長い時間何も言わずに立ち尽くして、「ありがとう」とはっきり言った後にぽろぽろと泣いた。”お前の名は気に入ったか”と問えば、「もちろん。すごく。わたしきっと今日のことを、死ぬまで、死んでも、絶対に忘れないわ」とそう言った。 わたしは満足して、無理に折り曲げて腹の下をのぞき込んでいた首を伸ばした。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加