冒険譚のラストシーンにて

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もう瞼すら重たくて、わたしは抗わずに目を閉じた。二人の匂いもわからないし、もう声さえ聞こえない。いままでで一番つよい眠気が、尾から頭へと染みわたっていく。 瞼の裏側の白い闇だけを知覚していた。そこに、あらゆる記憶が映し出される。ただの木偶だと思っていたあの日の男。一緒に祭りの音楽を聴いたこと。男と星を眺めて、神話を教えてやった夜。子が生まれたと泣いて駆け込んできた朝。赤子だったファリアを初めて見たとき。忙しい仕事の合間を縫って時折顔を出した男。ファリアがたった一人でわたしに会いに来た雨の日。男によく似て無鉄砲で、頑固で、そしてとても優しい子だったこと。帰ってゆくふたりの背中。いつの日もふたりに会いたかったこと。ふたりを夢想しながら過ごす日々は、とてもとても永かったこと。最期にわたしを想って、泣いてくれたこと。それらが半透明の立体となって立ち上がって、白い闇の中を私に向かって吹きつけてくる。竜の言語が起こす、誰も傷つけない風のように。 わたしはきっと笑っている。ああ十分だ。こんなにもたくさんのものを手に入れた。 大昔に消えていった竜の仲間たちは、終わりの瞬間にこんな走馬灯など視なかっただろう。彼らの生はからっぽだったから。 湧き上がる幸福感に胸の中心が灼けつきそうだった。このこころを抱いて消えてゆく。わたしは、わたしだけが、こころをもった竜だった。世界でいちばん幸福な竜だった。
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