冒険譚のラストシーンにて

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「子が!子が生まれたんだ!」 煌々とオレンジ色に空が焼けた早朝に、朝露に濡れた山肌になんども足を滑らせながら、男が転がり込んできた。一晩寝ずに居たのだとすぐにわかる隈を目の下に携えて、真っ赤にした頬を震わせて、男が叫ぶ。 「女のこだった、げんきな、女のこ」 切らせた息が限界で、それだけ言ってその場にへたり込む男の上下する背中を、わたしは不思議な心地で見ている。あの日ただ純朴さがだけが取りえだった木偶が、子の親になったのかと。 そういえば。男の背中はずいぶんと逞しく大きくなった。わたしは知っている。「嘘」で出来上がった英雄だから、すこしでも「本当」になれるよう、毎日鍛錬を欠かさないこと。以前は相手にもされなかった街の者たちへ、今まで以上に尽くしていること。除け者のように自分を扱ってきた街の治安維持へ、毎日努めていること。結ばれた街の長の娘には、自分は英雄なんかじゃないと打ち明けたこと。それを含めて愛してくれたこと。 大きな嘘と、国や街、そして妻を背負う背中。これからはもうひとつ命を背負っていく背中。 この気持ちを何というのか、数千年生きていても理解できない。ただひとこと口から洩れたのは "そうか" だった。心からなにかが染み出そうとしているのに、わたしはそれを言語化できない。 男はぼろぼろと泣きながら顔を上げる。 「あの子は、お前が俺に授けてくれた。お前のおかげだ。こんな、何にも無かった俺に、愛する妻も子も、ありがとう、ありがとう…」 わんわんと地面に突っ伏して男は泣いた。 “英雄になって“人の前で情けなく泣くことすらできなくなったから、こうしてわたしのところへ走ってきたのだろう。 太陽が稜線からすっかり顔を出すまで、英雄は泣いていた。 やがて目を真っ赤にしながら妻と子のもとへ帰るとき、「お前にあの子の名前をつけてほしい」と男は無茶なことを言って、また走って去っていったのだった。 その日は一晩中、わたしは生まれて初めて眠りもせずに、首を伸ばして夜の空を見つめていた。真っ黒な空にさまざまな色や大きさの星が散らばって、拍動しているのかと思うほどに、それらがちかちかと瞬いている。 星を最後に見上げたのはいつだっただろう。こんなにも美しかっただろうか?不思議な心地になりながら、わたしは大昔に仲間から教わった、竜の中に伝わる神話を思い出す。 男の言葉がいつまでも胸の中に反響していた。わたしがあの男に授けたと。その儚く小さな命を。 麻痺してしまうほどにわたしの命は永すぎたから、誕生した命に対して尊いと感じたことに、自分自身で驚いていた。男の嬉しそうな顔。数えきれないほど落とした涙。きっとあっという間に終わってしまう命だから、あんなにも男の一瞬一瞬が眩しく見えるのだろうか。羨ましいと、そう思った。 _____ わたしは名付けに5日間悩み続けた。そして竜の中に伝わる一番古い神話に出てくる、「竜を産み落とした星」を意味する言葉を贈った。 その言葉は人間には発音できないようで、わたしの発音を真剣な顔で聞き取った男が、最も近い発音である「ファリア」と、そう決めた。 「竜を殺した男」の子供につけるには、いささか皮肉だろうかとも考えたが。この純朴で誠実な男の元に生まれた子供に、わたしの母たる星の名前を贈ることは相応しい気がして、わたしは満足だった。
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