冒険譚のラストシーンにて

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名を呼んでやってくれるか。 そう言って男が、この世で一番重要な宝物でも隠しているんじゃないかと思えるほど大切そうに抱えている、布の塊を揺らす。男のささくれだった無骨な指があまりに優しく動くから、わたしは息を止めてそれを見ている。柔らかい布をすこしずらすと、そこからちいさなちいさな、頬と手がのぞく。その薄い皮膚に生えている産毛が、まだ低い位置からさしている陽の光を浴びて金色に輝く。 ”   ああ。” わたしの口から洩れたのは、返答だったのか嘆息だったのか、自分でもよくわからなかった。なんてちいさい___どの動物の赤子よりも儚い存在だろう。 赤子を抱いて数歩こちらに男が歩み寄るものだから、鱗や爪や牙が当たってしまうのが恐ろしくてわたしは後ずさる。男は眉を下げて笑って、「ありがとう。お前にどうしても会ってもらいたかったんだ」と言った。 その赤子はすぐ目の前に恐ろしい見た目の竜がいるとも知らずに、まだ目を閉じてふくふくと寝ている。 男が、さあ、というような表情でわたしの顔を見る。自分のこころさえうまく把握できていない私はしばらく言いよどんでから、なるだけ風を起こさないように"ファリア"とささやいた。 つむじ風は起きなかった。赤子もすやすやと眠ったままでほっと息をつく。けれど、男が言う。 「そっちじゃなくて、おまえが贈ってくれた、本当の名を呼んであげてほしいんだ。本当の発音で」 やはりおかしな奴だ。父や母が発音できる方が本当の名でいいだろう。そう言うのだが男は笑いながら首を振って、「おまえが贈ってくれた方が本物だ」と言った。…この男は頑固者だ。きっと一度決めたことを訂正はしないのだろう。 "____【    】" 男へこの名を贈ったとき、竜の言語を話すのは数百年ぶりだった。もう私の命がいつの日か尽きるまで口に出すことはないのだろうと思っていた、わたしたちの言語。わたしたちを産み落とした、母なる星と同じ名前。【    】。 男は初めてこの言語を聞いたとき、「風の音を聞いているような言葉だ」と言った。俺の娘に、こんなに美しい名前を授けてくれてありがとう、とも。 だから殊更、生きてきた数千年のうちで一番優しく発語する。森の木々を揺らす風がやんで、わたしの口から洩れた赤子の名だけが、わたしたちの周りの草花と、赤子の前髪を撫でた。
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