推しに愛されすぎて困るので庶民に転生したら、推しも王太子に転生して追いかけてきた件

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 私はごくごく普通のOLをしている。  今年で25歳。  週5で働き、毎日4時間くらい残業して、彼氏はいなくて、学生時代の友達はいるけど最近会うのがおっくうで、休みの日は1日じゅう部屋でゴロゴロしてすごす――なんて、ありがちな日々を送っている。  こんな私の元気の源は「推し」の存在。  人気絶頂の5人組男性アイドルユニット『ファイズ』。  私のイチ推しは、海原(うなばら)カイくん。  通称 カイ。  21歳。  身長181センチ。体重65キロ。特技はバスケ。  ファンからのあだ名は「クール王子」。  顔面力 ∞(そくていふのう)、見るだけでヒアルロン酸注入と同じ効果があると言われる尊い美貌と、触れたら指が凍りつきそうな色気、歌う時以外はほとんど口を開かないミステリアスな性格で、全世界の女性を魅了し続けている。そのルックスは、宗教の戒律が厳しいある国で「婦女子に不適切な感情を抱かせる」として、彼の載った雑誌や新聞が発禁処分を受けたほど。国家が恐れるほどの「超法規的美男子」それが、カイくんだ。  だけど、私にとって、カイくんの魅力は「外見」ではない。  もちろん外見も大好きだけれど――私が彼を推している理由は、彼の性格。  彼の新人時代、「ファイズ」に入るずっと前、まだ垢抜けない少年だった時期のインタビュー映像を見てからだ。 『俺、ファンクラブ限定みたいなの、好きじゃないす』 『お金でファンを区別するようなこと、したくないす』  あどけなさの残る顔で、恥ずかしそうにボソッと言ったその表情が――今も私の脳に焼き付いている。  この時、私は決めたのだ。何があっても彼をずっと推していこうって。  カイくんの発言は、これから売りだそうというアイドルとしては異質だったと思う。  当時の事務所からは冷遇された。  3年前、大手事務所が引き抜いて「ファイズ」に加入するまでは、ほとんど誰も知らない無名アイドルだったのだ。それがこの3年でダンスの才能に目覚め、他のメンバーとからむことで魅力を引き出され、あっという間に超人気になったのだから、世の中わからない。  今でも彼は、「ファイズ」のファンクラブ限定イベントには出ない。  その理由はファンのあいだでも謎とされている。今はもう何も語らない彼だから「塩対応のカイ」なんてアンチには言われたりするけれど、私は知っている。彼が誰よりもファンを大事にしていることを。  夢中になれるものがあるって、幸せだ。  推せる人がいるって、最高だ。  彼氏がいなくても、残業続きでも。  カイくんのおかげで、毎日がハッピー。  海原カイくん。  生まれてきてくれて、ありがとう。 ◆  とある日曜日。  私は「ファイズ」の握手会に来ていた。  アーティスト路線を取る「ファイズ」の、初の接触イベントだ。  当選確率数万分の一と言われる抽選をくぐり抜けて、当選を果たしたのだ。  これも運命かな、神様がカイくんに会わせてくれたのかな――なんて、畏れ多いこと、今日だけは思ってもいいだろうか。  前日は美容院行って、エステ行って、苦手なサウナもがんばって入ってお肌つるつるにした。服もこの日のために買ったお高いもの。イタイ自意識過剰女だって思われてもいい、最高の彼の前に立つからには自分も最高の状態にして立ちたかった。  大きなドーム球場が、握手会の会場だ。 「ファイズ」5人のメンバーのうち、握手はひとりとしかできない。  カイくんと握手する場合は、東ゲートから入場することになっている。  長い長い列が、球場の外まで続いていた。  開場まで、あと2時間。  私もさっそく、列についた。  ここに並んでいる人たちがみんなカイくん推しなんだって思うと、それだけで幸せな気持ちになってしまう。  カイくんの列が、他のメンバーの列と違うのは、小学生くらいの女の子がたくさん交じっていることだった。わくわくと目を輝かせている女の子と、その隣でつまらなそうにスマホをいじってるお父さんの差が、ちょっと面白い。  カイくんは小学生にも人気がある。  無愛想で塩対応といわれる彼が、なぜ子供に人気なのか――よくネットでは話題になるけど、そんなの簡単だ。彼はファンを子供扱いしないから。対等なひとりの人間として接してくれる。だから、子供たちもみんなカイくんを好きになってしまう。  そんな子供(なかま)たちを眺めていたら、あっという間に開場時間。  入り口にいる係員に当選チケットを見せて、次々に入場していく。  あともう少しで私の番というところで、私の少し前に並んでいた小学校3年生くらいの女の子が泣き出した。 「おとうさんに、チケットわたしたのに!」  父親らしき男性が、おろおろしながらバッグの中をさがしている。 「お父さん知らないよ、ユイちゃんが持ってたんじゃないの?」 「ぜったいにわたしたもん!」  女の子もスカートのポッケに手を入れたり、リュックの中をのぞいたりしているが、見つかった様子はない。  小学生以下の入場は保護者同伴と決まっているため、チケットは1枚でいい。  しかし、その大事な1枚を、なくしてしまったようだ。  不機嫌そうに係員が言った。 「ちょっとあんたたち、脇にどいてて」  女の子は列から押し出されてしまった。  リュックが落ちて、中身が冷たいコンクリートにぶちまけられる。  女の子は両手で顔を覆って泣きだした。さっきみたいな大声はあげなかった。しゃっくりを繰り返すような泣き方に変わっていた。  後ろに並んでいた人たちが入場していく。  みんな、気の毒そうに女の子をチラリと見はするけれど、早歩きで入っていく。  当然だ。  この先には、推しが待ってる。カイくんが待ってるのだ。今まで一度もやらなかったファンとの接触イベント、初の握手会。ネットオークションでは数百万の値がついたなんて話もあった。私にすれば信じられない話。億だろう兆だろうと、彼との握手に値段なんてつけられない。なにものにも変えられない。  女の子を見ないようにしながら、チケットを係員に差し出した。  スタンプを押してもらって、うつむきかげんに、女の子の横を通り過ぎる。  通り過ぎ――ようとしたのだ。  そのとき、地面に落ちている一枚の画用紙が目に入った。  クレヨンで描かれた、カイくんの絵だった。  彼に手渡すために、持ってきたのだろう。  画用紙いっぱいに、はみだす勢いで描かれた絵。  楽しそうに笑顔で歌う、カイくんだった。 「……………………」  私じゃなければ、気づかなかったと思う。  お世辞にも上手とは言えないこの絵が、カイくんとはわからなかったと思う。  だって、カイくんは、凍りつくような色気のある声で、どこかけだるそうに、クールに歌い上げる。笑顔なんて見せたことがない。  そんなだから、「カイは歌うのが好きじゃない」なんて、マスコミに書かれたこともある。  この絵みたいに笑顔で元気よく歌うのはカイくんじゃない――ほとんどのファンはそう思うだろう。  だけど。  私の解釈はそうじゃない。  カイくんは、本当は歌うのが大好きなのだ。  切なげな色気のある表情で歌う彼だけれど――私には楽しそうに見える。幸せそうに見えるのだ。  つまり――。  解釈一致。  私は初めて、推しへの解釈が一致する同志に巡りあった。 「ねえ」  絵を拾いあげて、泣いている女の子のそばにしゃがみこんだ。 「この絵、カイくんだよね?」  女の子はベトベトのクシャクシャになった顔を上げて、ウンと頷いた。  私は微笑んだ。 「やっぱりね」  心の中で、もうひとりの私が叫んでる。  ――馬鹿なこと考えないで!  ――握手よ!? カイくんとの握手!!  ――このチケットを当てるために、貯金の半分つぎこんで!  ――絶対に休日出勤なんてことにならないよう、あらゆる仕事を前もって片付けて!  ――昨日は高級エステ行って、服もお化粧もバッチリキメて!!  ――あともう少しで、彼の前に立つことができるっていうのに!  そんなことわかっていた。  言われるまでもない。  だけど――やっぱり、お金じゃない。  彼ならきっと、そう言うはずだから。 「私のこれ、あげる」  チケットを差し出すと、女の子は呆然とした。 「……いいの?」 「うん。そのかわり、この絵、私にちょうだい?」  女の子はしばらく無言でいた。  やがて、コクンと頷いた。 「ありがとう。――じゃ、カイくんによろしくね!」  私は歩き出した。  後ろで、彼女のお父さんが何か言っていた。お礼らしかった。だから、歩くスピードを速めた。呼び止められてしまったら、言ってしまうかもしれない。「さっきのは冗談、チケット返して」。自分で自分のことを嫌いにならないために、私はずんずんずんずん歩いた。後ろに並んでいた同志たちが、ふしぎそうに私を見ていった。  歩いて、歩いて。  途中からはもう、ダッシュして。  球場が見えないくらい遠くまで来てから、ようやく立ち止まった時、目からなんだかよくわからない液体があふれ出した。あとからあとから、あふれてきた。  涙――じゃないと思う。  私は、今、幸せなはずだから。 ◆ 「…………はあ…………」  夜七時すぎ。  ひとりで入ったファミレスで、私は夕食を食べている。ミートドリアとドリンクバー。それとフォッカッチャ。高校時代からまったくかわりばえしない、私の「定食」。  日曜だから周りは家族連れやカップルばかり。そんななか、私は6人掛けのボックス席にひとりで座っている。  ――何やってるんだろ、私。  今日は一日、ひとりカラオケで時間を潰した。もちろん「ファイズ」三昧。もちろん振りつき。ファンならば当然だ。  ひとカラは、それはそれで楽しかったけれど……。  握手会をふいにしたダメージがいまごろ効いてきた。  今度はいつやるのだろう?  そもそもやってくれるのだろうか? 2回目はない、なんて言われても不思議じゃない。それくらい貴重な機会だったのに。  何度目かわからないため息をつきながら、すっかり冷めたフォッカッチャを指で突いていると――ふっと背の高い影が私にかぶさった。  見上げると、そこには。 「ようやく、見つけた」 「――――」  え、待って。  わかんない。  わけわかんない。  海原カイくんが、目の前にいる。  目の前に立っていて、私を見下ろしている。  変装なのかメガネをかけているけど、そのクラクラするほどの色気までは隠せない。  カイくんは私の正面に座った。嘘だ。近い。馴染みのファミレスで、彼が目の前に座っている。近い。 「それを描いた子が、教えてくれたんだ」  彼が指さしたのは、テーブルの上に置かれているクレヨン絵だった。 「入場の様子を動画撮影してたスタッフがいて、確認した。防犯カメラも見た。あんたで間違いないよな?」 「えっ?」  状況が飲み込めない。 「子供のファンにチケットを譲ってくれたの、あんただろ?」 「――あ」  ようやく話が理解できた。  きっと彼は、握手会であの女の子から事情を聞いたのだ。私の顔を映像でわざわざ確認して、探しにやって来たということか。 「近くにいてくれて良かった。この街から出て行ってたらお手上げだった」 「い、今まで私を探してたんですか?」  握手会の終了時刻からもう5時間は経っている。この街は広いし、日曜だから人の数なんて膨大なのに。 「あ、あの、どうしてそこまで?」  声が掠れる。  目が引き寄せられる。  恥ずかしいのに、こんな疲れた顔を推しに見せたくないのに、どうしても彼の瞳に引き寄せられてしまう。 「惚れたから」  ぶっきらぼうに、だけどしっかりと私の目を見ながら彼は言った。 「ひと目ぼれした。あんたに」  またもや、私の思考はフリーズする。  ひとめぼれ?  推しが?  カイくんが、私にそう言ったの? 「や、で、でもわたし、美人でもないし、どう控えめに見ても、中の中、いや下、かもだし、釣り合わないし」 「そんなことない」  冷たく彼は遮った。 「あんたは十分綺麗だ。ていうか、ひと目ぼれって顔だけのことだと思ってる?」 「ち、ちがうんですか?」 「違うよ」  だめ。  彼から目を離せない。  声に聞き惚れてしまう。だめ。 「人間に、人間が惚れるんだ。魂が惚れるのは、魂だけだ」  真面目すぎる顔でそう言って、最後に、少し照れたように頬を染めながら「好きだ」と付け加えた。  私はもう、ただただ、固まるばかり。  ありえない。  ありえないことが、起きてしまった。 ◆  とりあえず――。  その日は1時間ほど話した後、そのまま別れた。会話はほとんど弾まなかった。なにしろ彼は無口だし、私もそれほどおしゃべりがうまくないし、無言の時間が多かったと思う。「つまんなくないのかな」と思ったけど、彼は彼で沈黙を楽しんでいるような感じだった。  別れ際「本当は俺が送っていきたいけど」なんて言いながら、タクシーチケットを渡してくれた。手にするのは初めてだった。ベンチャーの社長と付き合ってるという職場の後輩がひらひらさせてるのを見たくらい。  誰もいない家に帰って、お風呂に入って、いろいろ片付けて、明日の仕事のことを思い出して憂鬱になって、「ファイズ」のライブ映像を流しながらベッドに入ろうとした時、ふいに「現実」というものが襲いかかってきた。  ――いやいやいや。  ――どう考えても釣り合わないでしょ!?  彼とはまた、来週日曜に食事することになった。何度も断ったけど「頷いてくれるまで帰さない」なんて言われて強引に約束させられた。  私の推しは押しが強い人だったのね――なんて、ダジャレにもならない。 「推しのことは遠くから見守るべし」みたいな価値観が、私のなかにはっきりとあって。「私みたいな普通の子が彼と付き合ったら、推しの価値が落ちる」。自虐的かもしれないけど、本気でそう思っている。  カイくんは、私みたいなのと付き合っちゃダメ!  じゃあ誰ならいいのか、絶世のハイスペック美女となら付き合っていいのかと問われるとわからなくなるのだが、少なくとも「私」とだけは違うと断言できる。  スマホを操作して「ファイズ」ファン専用のコミュニティを見る。ファンクラブ会員専用のSNSで熱い書き込みが多い。今日は握手会の話題であふれかえってるけど、メンバーの恋愛やゴシップのトピックもあって、カイくんと前に噂になった女優のことも書かれている。すぐにカイくん自身が「誰すか、それ」と完全否定してしまったけど「じゃあ誰なら許せるか」みたいな話題もあって、カンカンガクガク、いろんな有名女性の名前が出るけど、誰も納得しない。 『カイと付き合う女性は、もっとすごい人じゃないと』 『どこかの国のお姫さまくらいじゃないと許せない』  お姫さま。  私とはまったく縁のない、別世界の存在だ。  もし彼女たちが、カイくんと私が付き合ったことを知ったら、がっかりするだろう。そして怒るだろう。ふさわしくないと叩きまくるだろう。まったく同意だ。私自身そう思う。  よし、ちゃんと言おう。  次に会う時、これっきりにしましょうって、はっきり言おう。 ◆  今日のデート場所は、六本木にある焼肉屋さんだった。  盛り合わせキムチが3千円もするような高級店で、どうみても庶民じゃない煌びやかな人たちが薄暗い店内でこそこそ肉を焼いている。隠れ家的な場所で、芸能人がよく利用するのだという。5枚入りのサンチュが千円もして「この葉っぱ1枚が200円!?」とか思ってしまった。  お肉は信じられないくらい柔らかくて美味しかったけど、会話はあまりなかった。カイくんは無口だし、私も正面に座る彼に見とれることしばしばで、会話がなくてもまあまあ楽しんでしまっている。  ……いや。  楽しんでしまってはいけない。  今日ははっきり断りに来たんだから。  デザートの高級フルーツ盛り合わせをつつきながら、なんて切り出そうかと考えていると――唐突に彼のほうから口を開いた。 「あんた、アジフライには何をかける?」 「えっ?」  超高級焼き肉店で唐突に飛び出した、庶民感あふれる食べ物の名前に気勢をそがれてしまった。 「アジフライ、このお店にあるの?」 「いや、そうじゃなくて……」  カイくんはちょっぴり照れたように視線を斜めにした。 「リョウジから聞いたんだ。誰とでも会話が弾む鉄板の話題だって。アジフライ、嫌い?」 「あ、いえ、好きです」  リョウジは「ファイズ」のリーダーでお兄さん的な存在だ。どこか世間離れしているメンバーのなかで一番気さくで庶民派、いかにも彼らしい話題のチョイスだと思う。  わざわざ今日のために、彼に聞いてくれたんだ。  私との会話を盛り上げるために……。 「私は、しょうゆかな」  カイくんは真面目に考え込む目つきになった。 「そういう人多いのかな。俺、ウスターソース以外の選択肢はないって思っていたけど」 「しょうゆと、それからマヨネーズ」 「マヨ?」 「そこに七味をぱらっと」 「七味!?」  あまりにも良すぎる顔に、驚きが浮かび上がった。 「うちのお父さんがそうしてたから、昔からこれで」 「しょうゆとマヨネーズと、七味」  呪文のように彼は繰り返して、ぽかんと口を開けた。  その顔があまりにも可愛くて可愛くて、私はめちゃめちゃ幸せになってしまった。何かカラダに良いものが彼の全身から発散されているかのようだ。無限に見ていられる。 「今度、試してみる」 「あ、うん、お口にあえばいいけど」 「じゃあ、次はアジフライが食える店で会おう」  流れで頷きそうになってしまって、はっと我に返った。 「あの、カイくん。会うのは、これっきりにしてほしいの」  彼はある程度、その答えを予想していたようだった。 「俺のこと、嫌い?」 「や、嫌いなわけないし。推しだから」 「じゃあどうして?」 「推しだから。でも、だからこそ、これっきりにしたほうがいいと思うの」 「わからない」  彼の答えは簡潔だ。 「俺のことが嫌いっていうならあきらめる。もう追いかけない。でも、そうじゃないんだったら、どこまでも追いかける。世界の果てまで」 「世界の果てとか、無茶だし」 「マジで言ってんだ」  彼の目を見られない。  だけど、彼は私の目を見てくれる。  私自身、わからなくなってくる。このまま彼の言葉に甘えていいのか? それでいいのか? 今まで推してきた私の気持ちと、目の前にいる彼の気持ち、それらがぐちゃぐちゃになって私の思考をかき乱す。「はい」って頷きたくなる誘惑にかられる。でも、だけど、でも……。 「ごめんなさいっ」  混乱して、いたたまれなくなった私は――席を立って逃げ出すということをしてしまった。驚く店員さんの横をすり抜けて、薄暗い店内を駆け抜けてドアから出る。駅に向かって走り出した。  私が選択したのは、最悪の行動だったかもしれない。  だけど、もう、自分自身何をどうすればいいのかわからなくなっていた。彼は追いかけてきてるだろうか。それを確かめるのが怖くて、後ろも振り向かずにただひたすら何も考えずに走り続けた。  だから気づかなかった。  駅前の交差点、その信号が赤に変わりかけていることに――。 「危ない!!」  推しの声が聞こえた。  そこに重なる通行人の悲鳴。  続いて、視界が逆さまになった。  ぐるん、と世界が逆回転して、私の体は跳ね飛ばされ、固く冷たいアスファルトの上を転がった。「ああ、事故っちゃった」他人事みたいにそう思った。不思議と痛みは感じなかった。誰かに体をゆさぶってくる。私の名前を呼ぶ声が聞こえる。もう、それが誰のものだか、わからなくなっていく。  あまりにも、あっけない最期。  こうして、私はこの世での生を終えた。  幸せな人生だったと思う。  人生の終末に、推しとふたりきりですごせたのだから。  しあわせ、でした。 ◇  ◇ ◇ 「私」は知らないことだけれど。  その翌日、とあるニュースが報じられ、ネットやマスコミは大騒ぎになった。  人気絶頂ユニット「ファイズ」のメンバーの「カイ」こと海原魅さん(21)が、稽古場のバスルームで手首を切っているのが発見されました。 『彼女を追いかける』  遺書めいたメッセージが遺されており、警察は関係者に事情を聞いています。 ◇  ◇ ◇  ――私、もしかして、異世界転生しちゃってる?  そのことに気づいたのは、15歳の誕生日を迎えた日のことだった。  お祝いにと父親が作ってくれた好物のアジフライを食べていた時に、唐突に前世の記憶を取り戻したのだ。  この中世ヨーロッパ風の田舎ではなく、騒々しい都会に住んでいた前世のことを、まざまざと思い出した。 「……この世界にも、アジフライってあるんだ……」  前世の好物を口にして記憶がよみがえるなんて、私ったら、よほど食い意地が張っているんだろうか。 「ミーシャ、何を言ってるんだい? アジフライなんてよく食べてるじゃないか」  父親が笑っている。とても温和な笑顔だ。うちは母を早くに亡くしたため、父ひとり子ひとり。港町で小さな食堂をやって、男手ひとつで私を育ててくれている。「ミーシャ」はそういう家庭で育ったのだ。  前世の私は両親とは疎遠だった。大学進学のため都会に出てきて、そのまま就職して。一度も帰ったことがない。そのくせさっさと亡くなって、親不孝なことこのうえなかった。 「お父さん。私、明日からお店を手伝うわ」  父は目を丸くした。 「お前がそんなこと言うなんて、雪でも降るのかな?」 「私だって、もう十五だし」  アジフライを食べながら、私は決意する。  今世はなるべく親孝行しつつ、この港町で海を眺めながらスローに暮らそう。  都会であくせく働くのは、前世だけで十分だ。 「ところでお父さん。しょうゆとマヨネーズと七味、ある?」 「なんだいそれ。何かの呪文か?」 「ううん。聞いてみただけ」  それだけが、ちょっぴり残念。 ◆  ここは、イリス王国の片田舎にある港町。  海のすぐそばで、潮の香りがする。のどかで素敵な田舎町だ。  昨年学校を卒業した私は、魚を捕る網の手入れをしたり漁船の掃除をしたりする仕事をしている。ようするに小間使いだ。こんな田舎では、15の娘ができる仕事なんてたかが知れている。  田舎暮らしが気に入らない子や勉強熱心な子は、馬車で五日はかかる王都へ移り住んで仕事を探したり、高等学院に通う。私はここが気に入ってるので、どちらもしない。父とここでのんびり暮らそうと思う。潮風の向くまま、気の向くまま、だ。  ただ――。  やっぱり、どこの世界にも嫌なやつというのはいるもので。 「ちょっと、この店の主人は誰?」  お昼のピークが過ぎたうちの食堂に、来客あり。  私と同じ年齢の貴族令嬢だった。パーティーでもあるのかというくらい着飾って、お祭りでもあるのかというくらいぞろぞろ家来を連れている。その名もヤマンバ・マーガロイド伯爵令嬢。この一帯を治める伯爵家のひとり娘であり、気まぐれでわがままな性格に領民は振り回されることたびたびだった。 「これはヤマンバ様。何か御用でしょうか?」  エプロンをつけたままの父が進み出ると、彼女はふんと鼻を鳴らした。 「このお店、ちょっと古くなってなぁい? 汚らしいから改築しなさいな」 「改築と言われましても、なかなか資金が」 「じゃあ取り壊しなさいよ。我が領地の品位にかかわるでしょう?」  と、いつもこんな風に無理難題をふっかけてくる。  このヤマンバ様ときたら、私が前世で苦手だった同僚の子にそっくりだ。社員が持ち回りでやってる給湯室の掃除は他の子に押しつけるのに、課長が出社したら熱いお茶をシュバッと出すような子で。「君は気が利くねぇ」「えーそんなことないですぅ」なんて猫撫で声を出す一方で、バイトの子をいじめる時は低くドスのきいた声を出す。ゴマをするのは勝手だけど、彼女のせいでバイトがすぐに辞めるのは本当に困りものだった。  まさかヤマンバ様、その彼女の生まれ変わりということは――いや、ないか。私と違ってまだ向こうでぴんぴんしてるでしょうし。 「なによ、そこの小娘。何か文句でもあるの?」 「いえ別に」 「気に入らない顔ね。次に会うまでにこの建物とその顔、なんとかしておきなさい。いいわね?」  いったいどうしろと。  この世界じゃ美容整形なんかやってないのに。 「そうね、お鼻の穴を三つに増やしたらどうかしらぁ? きっとお似合いよ?」  オーッホッホッホ! と悪役令嬢のテンプレみたいな高笑いを残して、彼女は去って行った。 「ヤマンバ様のワガママにも困ったもんだな」  父がため息をついた。 「いずれは王都に上って、カイ王太子の花嫁の座を狙っているらしい。そうなったらますますお威張りになるだろうなぁ」 「カイ、王太子?」  どきん、と胸のなかで音がした。 「なんだミーシャ。まさか知らないってことはないだろう? この国の跡取り様のことじゃないか」 「え、ええ、もちろん知ってるわ。カイ殿下のお名前くらい……」  脳裏によみがえるのは見たこともない「王子」のことではなく、ステージで踊り、歌い、躍動する「推し」の姿だった。  前世の私が推してやまなかった「彼」と同じ名前に鼓動が高鳴ってしまう。  カイ王太子の名前なんて、前から知っていたはずなのに。  前世の記憶がよみがえった今、「カイ」っていう名前を聞くと、どうしても――。 「…………」  私が死んだ後、カイくんはどうしただろう。  どうか、責任なんて感じていませんように。  今もステージの上で輝いていますように。 ◆  それから3年。  たびたび来襲する伯爵令嬢さまの罵詈雑言をかわしつつ、私は18歳の誕生日を迎えることができた。  このところ聞こえてくるのは、王太子の噂だ。 『カイ殿下が、とある女性を探しているらしい』 『手がかりは今年18歳になる女性というだけで、他の手がかりはつかめてないそうだ』  その噂に、私の心臓は3年ぶりに大きな音を立てた。  カイ王太子はその美貌と武勇で各国に名前を知られている。直接彼を見たことがあるという塩売りのおばさんから聞くところによれば、「もうね、びっくりするほど美形! おばさん心臓が止まるかと思っちゃったわぁ」「まさに王子様、いや天使様? むしろ神様?」とのこと。まぁ、この人は何かと大げさで、ちょっと波が荒れただけでも「海神さまがお怒りだわ!」なんて大騒ぎするから、あまり鵜呑みにはできないのだけど。  武勇はともかく、美貌はまさに「海原カイ」と同じだ。  ただの偶然?  まさか本当にカイくんの生まれ変わりなんだろうか?  私が亡くなって、後を追ってしまったとでもいうの?  この世界にはスマホもカメラもテレビもないから、顔を見るには直接お目にかかるしかない。そのためには遠い王都まで行かなくてはならないけれど――見てどうしようというのか。もし本当に彼だったら、名乗り出ようとでも? 前世で彼のもとから逃げ出した私が?  まさか。  そんなこと、できるはずがない。  でも、気になる。  18歳の女性を探しているというのが、気になる。  まさか私を探しているなんてことは――ないのだろうけれど。 『どこまでも追いかける。世界の果てまで』 『マジで言ってんだ』  彼は確かに、そう言っていた。 ◆  それから一ヶ月ほど経った、とある日。  領主マーガロイド伯爵が、町の教会に住民たちを呼び集めて言った。 「この港町に今年18歳になる女性はいるか? いるのであれば、全員名乗り出よ」  私を含めて12人の女性たちが名乗り出た。  伯爵は私たちの顔をにらみつけ、低い声で言った。 「いいか。お前たちは18歳ではない。それより上でも下でも構わぬが、ともかく18ではない。誰に問われても、そういうことにせよ」  ぽかんとする私たちに、伯爵は理由を告げた。 「明日、カイ王太子殿下がこの港町にいらっしゃる。お前たちも噂くらいは耳にしてるだろう。殿下はひとりの女性を捜していて、その女性は18歳だという話だ。しかし、いくら18だからといって、礼儀作法もなってない下賎の娘を殿下の前に出すわけにはいかん。だからお前たちは『いないもの』とする。殿下のお相手は、我が娘ひとりに務めさせるゆえ」  伯爵のとなりでは、ヤマンバがしたり顔で頷いている。  ――なるほど。  彼女は、殿下の花嫁の座を狙っているという話。お近づきになるチャンス、そのためには私たちが邪魔というわけだ。  その時、私の父が伯爵の前に進み出た。 「しかし伯爵様。それでは王太子殿下に嘘をつくことになるのではありませんか? 私は娘を嘘つきにしたくありません。殿下に対しても失礼です」  父の勇気ある発言を、伯爵は冷たく一蹴した。 「差し出口を叩くな、町民風情が。貴族には貴族のやり方というものがある。お前たちが口を挟むようなことではない」  さらにヤマンバが追従する。 「お父さまの言う通りよ。アンタのそのダッサい芋娘を殿下のお目にいれるなんて、それこそ失礼というもの。わかる? これが我らマーガロイド伯爵家が殿下に対して示す『忠義』なのよ!」  なおも食い下がろうとする父の肩に、私はそっと手を置いた。 「かしこまりました、伯爵様。私は18ではありません。ひとつ下の17。そういうことにいたします」 「わかればよい」  満足して伯爵たちは帰って行った。 「お父さん、無茶しないで」 「すまない。お前のことをないがしろにされて黙っていられなくてな」 「ありがとう。でも……いいのよ」  そう。このほうがいい。  もし、カイ王太子が「カイくん」なのだとしても、やっぱり、私と彼は結ばれることはできない。  いちファンとアイドル。  庶民と王太子。  前世より格差が広がっている。  会わないほうがいいのだ。 ◆  そして翌週、カイ殿下がこの港町にやってきた。  馬に乗った騎士が長い隊列を作り、その中央に守られて豪華な馬車がゆっくりと轍を進めていく。通りは王太子の美貌をひと目見ようという人々が集まって、お祭りのような騒ぎだった。  馬車は町で一番大きな広場へと入っていく。人々もそれに合わせて移動して、群衆がひしめき合う事態となった。  熱気と人いきれの充満する広場に、私もいる。  家に引きこもっているつもりだった。  だけど、やっぱりどうしても、どうしても気になってしまって――遠くからひと目見るだけでもと、やってきてしまった。  馬車の扉が開いて、白い衣装に身を包んだ背の高い男性が降りてきた。  その美貌、その洗練された所作に、群衆から声にならないため息が漏れた。 「……!」  ああ、間違いない。  やっぱり、カイくんだ。  髪の色は金髪で、目鼻立ちも微妙に前世とは違っているけれど――あの触れれば凍りつきそうな色気、危うさを感じる物憂げな表情は「海原カイ」でしかありえない。私が推しを見間違えるはずがないのだ。カイくん。いったい何年ぶりになるのか。すごく懐かしいはずなのに、昨日会ったばかりのような気もする。そんな不思議な心地で、私は彼に見とれた。  ――と。  いけない。  私は彼に会ってはいけないのだ。  歓呼で迎える群衆にまぎれて、私は人目につかないよう、成り行きを見守る。  カイ殿下は親衛隊が即興でこしらえた壇上に立った。 「今年、18歳になった女性がいたら、この場で私に名乗り出て欲しい」  群衆はしんと静まりかえった。気まずそうに黙り込み、うつむく者もいる。伯爵に言われた言葉が効いているのだ。  誰も名乗り出ないのを見て、殿下はわずかに眉を動かした。 「これだけいてひとりも該当者がいないはずはないだろう。どうなっている?」  その時、群衆の一角が割れて、派手派手しく着飾った女性が現われた。 「はじめまして殿下。ヤマンバ・マーガロイドと申します」 「マーガロイド伯爵家の令嬢か」 「いかにも。そして、アタシは今年18になりましてございます」  得意満面なヤマンバ様だけど、殿下の反応は冷淡だった。 「では問おう。ヤマンバ嬢」 「はい殿下」 「アジフライを食べる時の調味料は何を用いる?」  殿下にうっとりみとれていたヤマンバの表情に、驚きが浮かび上がった。 「あ、アジフライでございますか? あれは、庶民の食べ物なので……」 「ほう。嫌いか? ここは港町では新鮮なアジがたくさん獲れると聞いたが」 「いっ、いえ、嫌いとかでは!」  彼女は髪を振り乱して首を振った。 「そっ、そうですわね。アジフライでしたら、その、うちの料理人に作らせた特製ソースが絶品ですわね。貴重な香辛料をふんだんに使って100時間ほども煮込んだもので」  殿下は首を振った。 「私はアジフライのことを尋ねたのだが。君はソースの話をしたいようだ」 「もっ、申し訳ありません。ですが……」 「もういい。さがれ」  ヤマンバはまだ何かわめいていたが、親衛隊2人に両脇から抱えられて、引きずられるように退場した。 「さあ。他に18歳になる女性はいないか?」  やはり名乗り出るものはいなかった。伯爵令嬢が無様に退場したとはいえ、彼の父親の権力はこの町では絶対だ。  殿下の視線が群衆のあいだを彷徨う。そのまなざしが、とても懐かしくて――ステージで歌いながら観衆を見るときの切なげなまなざしそっくりで――私を身を隠すのを忘れて、見つめてしまった。  殿下の視線が、私のところで止まる。  どこにでもいるような平凡な町娘であるはずの私のことを、じっと、見つめる。  しまった、と思った時はもう遅かった。 「そこの、黒髪の君」 「……はい」 「あなたの年齢は?」 「18歳です」  真実を答えてしまった。  殿下は壇上から降りると、私のところまで歩いてきた。無骨な親衛隊たちの表情に驚きが浮かぶ。次期国王である殿下が、名もなき平民の女に歩み寄るなんてありえないことだ。 「名前は、なんという?」 「ミーシャと申します」 「ミーシャ。あなたはアジフライに何をつける?」  わたしはごくりと唾を飲み込んだ。  少しだけ、ほんの少しだけ迷った後で、きっぱりと言った。 「私は――何もつけません」 「……」 「私の父は港のそばで小さな食堂をやっております。揚げたてのアジフライは絶品です。何もつけなくても十分美味しいのです。――ですので、皆様、ぜひ食べに来てください!」  最後は親衛隊や観衆たちに向かって言った。彼らはどっと笑った。「この機会を活かして店の宣伝をするちゃっかりした女」という風に思ってくれたらしい。  殿下は笑っていなかった。  どこか悲しそうな目で、何度か瞬きをした。 「わかった。それがあなたの答えなのだな」 「……」  金髪を翻して殿下は去って行った。  彼の後ろ姿を見つめながら、私は自分に何度も言い聞かせた。  これでいい。  これでいいんだ……。   ◆  次の日の午前中。  私は頼まれた網の修繕を早々と終えてしまってヒマになり、誰もいない砂浜をぷらぷらと歩いていた。  王太子一行はすでに別の町へと旅だった。「運命のひと」をまた探しに行ったのだろう。  彼はやっぱりカイくんで、そして「私」のことを探していて――でも、きっと、いずれは諦めるだろう。どこかの貴族令嬢を娶って即位するに違いない。なにしろ今世の彼はアイドルではなく、王太子なのだ。この国を治めていく責務がある。カイくんは誰よりもファンを大切にする人だった。そんな彼が、国民を無視して永遠に独身でいるはずがない。私が一番よく知ってるのだ。 「はあ……」  澄み渡る空と、綺麗な海。  私はこの町でずっと暮らしていく。いずれは結婚するかもしれないし、しないかもしれない。どちらにしてもこの町から出て行くことはないだろう。  その時だった。  突然多くの足音がけたたましく近づいてくるのが聞こえてた。振り向けば、武装した大男2人がこちらに駆け寄ってくるところだった。男は私を取り囲むと、乱暴に肩をつかんだ。骨が軋む痛みに思わず声をあげたが、彼らはいっさい遠慮することなく私の腕をひねりあげた。 「よくも殿下の前で恥をかかせてくれたわね」  二人に取り押さえられた私の前に現われたのは――ヤマンバだった。  その瞳には暗い憎しみの炎が燃えたぎっている。 「恥? いったいなんのことです」 「とぼけないで。お父さまの言いつけを破って名乗り出てたじゃないの! この庶民風情が! アンタさえいなければ、アタシが殿下の覚えをめでたくできたのに!」  めちゃくちゃな言いがかりだった。  つまり彼女は、失敗の責任を誰かに負わせる必要に迫られ、そうしないと自尊心が保てないから――その標的に、私を選んだということなのだろう。  私の右腕をつかんでいる男が、笑いをこらえるような表情をしている。どうやらヤマンバは自分の家来にすら、内心で見下されてるらしい。 「何よ、その目」  ヤマンバが下からえぐりこむように私をにらみつける。 「もういいわ。この女、この場で殺しちゃいましょう」  男たちがぎょっとするのが伝わってきた。 「それは無茶ですお嬢様。痛めつけてやるだけで構わないじゃないですか」 「それじゃアタシの気がすまないのよ。海に沈めて魚の餌にでもすれば誰も見つけられないわ。何かあってもお父さまがもみ消すし」  前世でいうところの「ヤのつくご職業」みたいな言い草だ。伯爵令嬢が聞いて呆れる。反社会的令嬢。 「報酬を倍に増やすわ。いえ、三倍にしてあげる。だから殺りなさい!」  その言葉に、男たちの目の色が変わった。  ぎらりと光るナイフを私の首筋に突きつけてきた。 「ふふ、こわいでしょう? 泣いてわめいて命乞いするなら、考え直してあげてもいいわよ?」  なんて彼女は言うけれど、正直なところ「刃物って冷たいのね」という冷めた感情しか湧かなかった。前世で一度死んでいるおかげで、死に対する恐怖が人より少ないのかもしれない。  ……ああ。  だけど、またお父さんをひとりぼっちにしてしまうのだけは、やっぱり心残りだ。  男が言った。「悪く思うな」そう低い声でつぶやきながら、その切っ先を頸動脈に食い込ませて――。 「お前たち、そこで何をしている」  突然の声に振り向けば、そこには金髪の青年が立っていた。あまりにも美しい、神々しいばかりの姿だった。思わず見とれてしまうほどの、まさに天使様、いや神様のよう。あの塩売りのおばさんの言ってたことは、決して大げさじゃなかった。  彼は剣を抜き放ち、隙のない構えのまま私のほうに近づいてくる。  ヤマンバが叫んだ。 「かっ、カイ殿下!? もう出立されたのでは」 「貴様が知る必要はない」  剣技の達人として名高い殿下だけど、その剣を振るう必要はなかった。殿下の眼光に気圧されようにして、男たちは私の腕を解放した。 「ヤマンバ伯爵令嬢。殺人未遂の現行犯だな」 「ちっ、違います、アタシはただ、この女が、この女を」 「この件は司法局に報告する。陛下にもだ。マーガロイド伯爵ともども王都に召喚されることになるだろう。襟を正して待つがいい」  彼女は「あわわ」と情けない声を出して砂浜に尻もちをついた。豪奢なスカートが砂まみれになり、唇の端には泡がぶくぶく溜まっている。 「この女を連れて行け」  立ち尽くす男二人に殿下は言った。 「さっさと連れて行かないと、この場で斬り捨ててしまいそうだ。お前たちの王太子が殺人を犯すところが見たいというなら話は別だが?」  二人は激しく首を振り、茫然自失のヤマンバを引きずってすごすごと立ち去った。    後には、殿下と私だけが残された。 「殿下、なぜ――」 「なぜ、名乗り出てくれなかったんだ」  その声は驚くほど強かった。   クール、あるいは「塩」だなんて言われることもあるカイくんの顔が、悲しみに染まっている。 「やっぱり、本当に、カイくん?」 「言ったじゃないか。世界の果てまで追いかけるって。そう言ったじゃないか」  彼の目に涙の粒がふくれあがった。白い頬を流れ、ゆっくりと静かに落ちていく。 「覚えてた。覚えてたよ、でも」  答える私の目からも涙があふれていた。熱いものがこみあげて、それ以上、言葉にならなかった。 「あんたのことは、きのう、ひと目見てわかった。その場で抱きしめようかと思った。だけど、こらえた。あんたが俺と結ばれるのを望まないなら、このまま帰ろうと思ったんだ。でもやっぱりダメだ。俺はあんたと――おまえと結ばれるためだけに、生まれ直したんだから」  鼻をすすりながら私は聞いた。 「こんな私で、いいんですか?」 「お前じゃなきゃダメなんだ」  剣を砂浜に放り出して、彼は私を抱き寄せた。  意外なほど広い胸に、私の涙が広がっていく。 「いいか。俺は執念深いんだ。おまえにだけ、執念深くなる。それを忘れるな」  はい、と掠れる声で答えながら、私は彼の胸のなかで泣いた。彼の涙がぽたぽた落ちてきて、私の髪を濡らす。すべてが崩れ去り、溶けていく。溶け合っていく。涙と涙が混じり合う。  魂が惚れるのは、魂だけ。  推しの言葉に、嘘はない。  推しが、私にささやいた。 「生まれてきてくれて、ありがとう」
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