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それから優鶴は泥のように眠る煌をリビングまで引きずり、玄関を掃除してから、濡れタオルで煌の身体じゅうについた血を拭った。さすがに二階の煌の部屋まで運ぶのは難しかったので、リビングに敷いた蒲団に寝かせた。
ようやくシャワーを浴びて着替えたのは午前七時頃。仮眠をとろうかと思ったが、今寝ると出勤時間に起きられない気がしたので、音を小さくしてテレビをつけた。ニュース番組内の天気予報がやっていて、今夜は梅雨時に珍しく一日を通して晴れだという。
昨夜から何も食べていなかったことを思い出したが、あんなことがあった後だろうか。腹は減っていなかった。冷蔵庫にあった五百ミリの炭酸水を三分の一だけ飲み、目覚まし時計をセットする。それを煌の枕許に置き、優鶴はいつもより少し早めに家を出た。
夕方、デスクで新しくできた製品の契約書を作成していると、出先から帰ってきた課長の岸田が「弟さん、今日で大学のスクーリングが終わるらしいじゃないか」と声をかけてきた。視線をパソコンから岸田に移し、優鶴は「はあ」と答える。あからさまに反応が薄かったものの、岸田は気にしていないようだ。
「今日はお祝いだな」
と、人好きのする笑顔で言った。岸田はサーフィンが趣味の、小麦色の肌が特徴的な気さくな四十代半ばの男だ。優鶴と同い年の息子がいるらしい。そのためか、血のつながらない弟を除いて家族をいっぺんに亡くした優鶴のことを、よく気にかけてくれる。
優鶴が「どうですかね……弟も疲れてるだろうし」と歯切れ悪く答えると、岸田は「おまえこそ疲れた顔してるぞ」と顔を覗いてきた。
「最近湿気が高いからですかね。はは……」
「そうだな。こんなときはパーッとサッパリしたもんでも食いたくなるよなァ」
本当ですよねぇ、と社交辞令のつもりで相槌を打つと、岸田が「今日は鱧でも食いに行くかな」考えるように顎に指を当てた。「いいですね」と反応すると、岸田は優鶴を指さして言った。
「良い店探しておけよ。高くていいから」
そこでようやく自分と行くつもりなのかと理解した。疲れていたので早く帰りたかったが、家に煌がいると考えるとためらわれた。
結局、仕事終わりに優鶴は会社近くの和食料理店に岸田と行った。木製の引き戸の両脇に盛り塩が置かれたシンプルな外観で、デートや商談に使われそうな落ち着いた雰囲気の和食居酒屋だ。
案内されたテーブル席で、煌の電話番号を表示させたスマホ画面に目を落とす。岸田が取引先からの電話で席を外してから、ずっとこんな状態だった。しばらくすると「先方の鈴木さん、話長いんだよ」と言いながら、岸田が戻ってくる。
「で? 弟、来れるってか?」
店選びを任されたとき、岸田は弟も呼んでいいと言ってくれた。だがさすがに昨日の今日で、煌と顔を突き合わせて食事する気にはなれなかった。
せめて遅くなると連絡をしたほうがいいんじゃないかと思ったが、煌と話さなければいけないと考えると肩に鉛を乗せられたような気分になる。煌の声を聞くのが怖い。メッセージを送るにしろ、どんな言葉を打てばいいのかわからなかった。
「なんか大学の友達と打ち上げに行くみたいで……来れないみたいです」
それらしい嘘をつき、「すみません」と頭を下げる。岸田は「若いねえ」と言って、割烹着姿の店員に生ビールを二つ注文した。
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