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一軒目を出たあと、岸田の行きつけだという路地裏のバーに行った。本当は一軒目で帰るつもりだったのだが、明日が土曜日ということもあって岸田が帰してくれなかった。
いや、きっと帰りたいと言えば帰してくれたはずだ。あえてその一言を口にしなかったのは、紛れもなく自分だった。
自宅に戻ったのは深夜である。日付もとっくに変わっていて、優鶴は終電で帰ってきた。
カチャッと玄関の鍵を開け、恐る恐るドアを引いて自宅の中に入る。ドアを閉めると、背後でドタドタと足音が近づいてきた。鍵を閉めて振り返ると、不安そうに表情を歪ませた煌が、上がり框から優鶴を見下ろしていた。
「お、遅くなってごめん。連絡するの忘れてて――」
優鶴が詫びると、煌は裸足のまま三和土に降り、震える手で優鶴の手をとった。
「帰って、きた……っ」
血管を数えるような煌の指に、手の甲を撫でられる。触れた手から、煌の不安げに鼓動する心臓の音が聞こえてくるような気がした。
むずがゆくて、優鶴は煌の角張った手の中から、自分の手を控えめに抜いた。
「はは……あたりまえだろ。家なんだから」
苦笑して言うと、煌は気が抜けたように上がり框に座って顔を覆った。
「もう帰ってこないかと思った」
「そんなわけないだろ」
「だって俺、きのう兄貴に……っごめん。謝って済むことじゃないけど、本当に……っ」
覚えていなければいいのにという願望が、あっけなく打ち砕かれる。今日一日考えた。あんなことをされても、自分は煌との関係性を変えたくないのだ。どうしてと訊かれれば難しいけれど……。
煌が覚えているのなら、この関係性を継続させるために自分ができることは一つだけだ。優鶴はうなだれる煌の肩に手を置き、「煌のせいじゃないよ」ポンポンと優しく叩いた。
「じゃあ誰のせいだっていうんだよっ」
ほとんど泣きそうな声が、玄関に響く。
本能のせいだとしか言いようがなかった。きっと煌もそのことをわかっているのだろう。わかっているからこそ、自分の犯した行動が許せないのかもしれない。
「俺はいつも傷つけてばっかりだ。兄貴を」
五年前の事故のことを言っているのだろうか。不憫に思えるくらい、煌が心底反省しているのが伝わってくる。痛々しくて、責める気にはなれなかった。優鶴は弟の肩から手を下ろした。
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