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煌から「髪切ってほしいんだけど」と頼まれたのは、夕飯を終えたあとだった。優鶴が風呂から上がると、上半身裸の煌が新聞紙を広げた上にあぐらをかいて座っていた。手には髪切り用のハサミを持っている。
「おまえなあ、頼むのはいいけど俺が風呂入る前に言ってくれよ」
煌は「悪い」と謝る。
「べつにいいけどさ。ていうか急にどうしたの。オメガの彼女でもできたか?」
「違う。そもそもオメガって本当にいんの? 俺、会ったことないんだけど」
第二次性徴真っただ中のとき、煌はほとんど外に出ていないのだ。オメガを見たことがなくて当然だ。
「俺は高校のときと――あと会社にもいるな」
優鶴の声に、煌はふうんと興味なさげに相槌を打つ。
「で? 髪なんか切ってどうすんのよ」
煌からハサミを受け取る。煌は「ああ」と面倒くさそうに口を開けて、近々大学のスクーリングがあるのだと説明した。
煌の大学が年に二回、夏期と冬期にキャンパスで一週間の集中授業があることは優鶴も知っていた。「もう七月か」と優鶴は時の流れの早さに感慨深くなる。煌が大学に行くと決めたあの日から、もうじき一年。
以前はうなされる声が、夜中に煌の部屋からしょっちゅう聞こえていた。そのたびに優鶴は煌の部屋に行き、怯える煌の背中をさすってやっていたものである。
だが、今は夢にうなされることもないようだ。最後に煌のうめき声を聞いたのはいつだったか。いい意味で優鶴は思い出せなかった。
海藻を垂らしたような髪を慣れないハサミでジャキジャキ切り終えると、現れたのはちょっとそこらへんでは見ないくらいのいい男だった。優鶴はしょせん素人なのでサイドを少し切りすぎてしまったが、煌のポテンシャルのおかげでツーブロックに見えなくもない。
ぶるぶると振った煌の頭から、短い髪が肩や背中にパラパラと落ちる。払ってやりたいが、なんせ優鶴の手や服もすっかり煌の短い髪にまみれているのだ。
「やっぱりまた風呂入るしかないかあ」
「一緒に入るか?」
振り返った煌の切れ長の目に捕まり、ドキッと心臓が跳ねる。
「お、おまえなあ……。冗談でもその顔でそういうこと言うなよ。みんな勘違いするぞ」
バチッと弟の背中を叩くと、煌は「冗談じゃないけど」と目を伏せてフッと笑った。近ごろ、煌は軽口を叩くようになった。たまに冗談も言うし、笑顔を見せることも増えた。
だが、時たま本気か冗談かわからない口調で、こちらがどきりとすることを言う。
はじめに「あれ?」と思ったのは、去年の秋頃。煌が大学進学を決意し、志望校を二人で絞っていた時期だ。
夕飯の準備中に、高校時代の同級生から久しぶりに電話がかかってきた。どうやら優鶴の両親と妹が亡くなったことを人づてに知ったらしく、同窓会の案内メールを何も知らずに送ったことを詫びる内容の電話だった。
気にしないでと言いつつ、弟が受験だから今回は欠席すると伝えた。そのあと、他の同級生たちの話を少しだけ聞いた。
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