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Ⅰ.待ちぼうけ(2023.10.11)
仕事に疲れていた、というより「浸かっていた」の方が近いと思う。
どっぷり肩まで浸かっていないと落ち着かないどころか、多少浴槽から溢れ出ていたって気にならなかった。
そんな常時ずぶ濡れの状態だから、些細なこと――仕事以外のことだ――を失念してしまうことも、別段珍しくなかった。
その些細なことの成れの果て、俺は今、大雨の中で待ちぼうけを食らっている。日時を間違っている訳では無い。絶対に、無い。
俺にはアナログな習性があり、紙媒体の手帳を携帯している。そこに予定やら日記を、漏らさず書き記しているのだ。今日の日付にだって随分前から「☆」マークを付けてあった。忘れるはずがない。
今一度スマホを手に取る。
先程から何度もそうしているように、ミサに通話を発信する。
お決まりの呼び出し音が虚しく響くだけで、待ち望んでいる声が耳に届いては来ない。呆れるほど熟れた動作で、通話発信をまた閉じる。
思わず天を仰いだら、雨粒が容赦なく顔に飛んできて弾けた。
仕事に浸かって常時びしょ濡れで、今も土砂降りに打ちのめされている。
いい気味だって、ミサは今頃思っているのだろう。
なんとなくそんな気がしたから、傘をささないでみた。そうした方が早く晴れてくれるように思えたのだ。
雨粒のレンズ越しの見慣れた街は、何故か余所余所しかった。あのビルの看板は、あんなに派手な女性だっただろうか。あの書店の看板は緑色だったかな。当たり前のはずの光景が、不自然に見えた。
さて今日の日記には何を書こうか。
きっとつまらない内容になるだろうな。そんなことを考えながら、俺は待ち合わせ場所にある銅像に一礼して、その場を去ったのだった。
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