月夜に出づるは小兎の片耳

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
それはそれは月の綺麗な夜でございました。 満月というものは妖しい光で人間の本性を顕現させると申しますが、濃紺の空に浮かぶまぁるい穴から煌々と照らされますと、そのような話も信に値すると感じさせるものです。 地上では時折点滅する街灯が寂しげな夜道の道標となり、そこに佇む人影を優しく浮かび上がらせておりました。ともすれば表情すら見えない明度でありますが、満月から延びる白い光が闇に潜ませることを許さず、赤らんだ御尊顔がわたくしに向けられております。 お互い言葉を交わすことなく見つめ合ったまま、どれだけの時が刻まれたことでしょうか。砂の粒が重力に沈むように長くもあり、花が儚く散るように一瞬でもあるような。涼しくも冷たさをはらむ風に吹かれて召し物がふわりと舞ったところで、あらためて彼の人のお姿を眺めるに至りました。 頬は紅色に染まり、自由気ままに肉付いた肢体が不規則な曲線をもって全身を象り、そのいびつな輪郭はむしろ美しさすら覚えます。左右に開かれた黒いお召し物からは生まれたままのお姿が露わとなり、満月に照らされた二つばかりの小さな満月とそれらに挟まれた中央からは小兎の片耳がちょこんと伸びておりました。 「ふぅー!ふうぅー!!」 ふたたび寒風が吹きますと、冷気にあてられた二つの小満月は身を縮ませて月食のようにお隠れになりました。奥に潜む小兎は外界に差し出した片耳をきゅっと引っ込めてしまい、その振る舞いにわたくしは思わず目を細め、月の兎とは何ともいじらしいものだとしみじみと感じ入りました。 秋の夜風は冬の息吹でもありますので、わたくしの方は外套の端を握って風をしのぐようにしておりますのに、彼の人はさらに召し物の両端を広げ、わずかに見て取れる双子の三日月と兎の小鼻の先をグイと押し出して、身を震わせて叫ばれました。 「ほらぁ!変質者だぞ!悲鳴あげろよぉ!!」 くぐもった響きは闇に囲まれた空間を響かせるには十分である一方、周囲の民家に届くには不十分という絶妙な塩梅による声量で熟練の領域に達するものでした。これには余程の経験を積んでこられたことでしょう。涙ぐましい努力が結実する瞬間とは誰によるどのような形であっても尊いものでございます。 炎を宿したぎらつく瞳からは眩しいほどの眼光。 欲望の代弁者たる口元からは荒ぶる情熱的な吐息。 皆既月食と月裏に住まう兎のかくれんぼ。 夜空を見上げますと、幻想的なほどの青白い光を放つ満月が微笑みかけてるようでした。 嗚呼、月よ。麗しさの結晶よ。 星々の輝きに満ちた遥か高き宇宙より、あなたは白銀の煌めきを届けてくれるのですか。 さすれば私は、魂を震わす舞台にて夢を舞わせて踊りましょう。 わたくしは外套の両襟をゆるりと広げ、一糸まとわぬ生のままの身をご披露いたしました。 胸元から腹の下まで広く茂る黒い密林。 その果てには月夜に降り立つ猛々しき天狗。 「こちらの方が、"上"だね」 喉仏を鈍く震わせたその響きは、彼の人のそれよりも引けも取らぬほど練り上げられた重厚かつ荘厳な調べとなり、悲鳴を上げて立ち去らせるには十分なものでございました。相対する者にのみに及ぼす技はわたくしも多少は心得ておりましたので、首尾よく成功して一安心でございます。 逃げ行く彼の人の後ろ姿を眺めながらコホンと咳払いしたのち、一人残された格好になったわたくしも、いそいそと反対方向に向かって退散することといたしました。 高ぶる魂の震えに任せ、素肌に風を当てながら夜道を駆けるのはなんと気持ちの良いことでしょう。 己の身を包み隠さずさらけ出すことに心躍らせる錯綜者と、かりそめの美の奔流に身を包みながらも、その内に秘めたるは先の者と心通ずる抗いがたき解放欲を秘めたいわゆる女装露出家とが出会う月夜の遭遇。 それはまさに奇跡に彩られた神秘の物語と言っても過言ではないほどの素晴らしき夜にございました。 天狗様も鼻を高くしていらっしゃいます。 (おわり)
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!