38.314話 「狼のうなり」

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38.314話 「狼のうなり」

2021年4月になった。相変わらず、コロナ禍だ。そんな中、俺、井上浩の住んでいるポテトハウスに監視カメラが増設された。 「最近、物騒だから、普段の行動にも気をつけてね」 大木局長から特別のお話もあった。いつも、車で出勤していた先崎春美さんや田中一男くんがポテトハウスから徒歩で「ふくしま探偵局」に出勤するようになった。交通事故でも狙われているというのか・・・。  やはり、事務室でのみんなの行動を見ていると、この1年間で一番、ピリピリしている。周囲の雰囲気を気にしているような気がする。俺がここに来てから、こんな雰囲気は初めてだった。  4月19日、月曜日。事件が起こった。俺は、先週あった長崎県での密輸事件の報告書を、午後6時までに作成し終えた。俺は、少し体を休ませたかった。事務室に残っていた森川優さんや片平月美さん、先崎春美さんに帰宅の挨拶をした。 「お先に失礼します」 「気をつけてね、井上くん」 「ゆっくり休んでくれ。長崎は大変だったからね」 「明日、午前中、休みと取ってもいいよ」 「大丈夫です。若いから・・・」 俺は、足早に事務室を出た。もう1年間も「ふくしま探偵局」にいるのに、まだ第1課の人間に会った事がない。受付の菅野梢さんにも手を振る。 「今日は早いですね、井上さん」 「疲れちゃって・・・」 本音が出た。  「ふくしま探偵局」を出て、福島駅方面に向かう。今日の夕飯はコンビニ弁当で済ませ、早めに眠る事にしようと思っていた。俺は駅前の通りを横切ると、ビルに入っているコンビニで焼き肉弁当とお茶を購入した。それから、近道である新幹線下の道を通って、ポテトハウスに向かう事にした。この道は近道ではあるが、女の子には勧められない。街灯が少ないのだ。まあ、周囲に気をつけていれば、安全。俺は少し早足で帰路を急いだ。  その時、新幹線下の暗がりから1人の男が出てきた。出てきたというより、わざとぶつかってきた。この時期、マスクもしていない。そして、俺の足下に倒れる。 「お兄さん、何、ぶつかってんだ」 倒れた男の後から出てきた別の男が、俺をにらみつける。その男もマスクをしていない。 「俺も見てた。お兄さん、わざとぶつかったよね」 その後にいた年配の強面のおじさんも、因縁をつけてくる。彼はマスクをしているので、よく顔の表情が読み取れない。しかし、3対1。それも、相手は怖そうな人間。刑務所でもこんな怖い顔の人は珍しい。  すると、倒れ込んでいた人が足を痛がる様子をみせる。 「松岡のアニキ、大丈夫ですか?」 わざとだ! 「岡田、戸澤さん、足の骨、折れたかもしれません。痛いから車で病院まで運んでくれますか?」 「わかりました」 岡田と呼ばれた男が走っていく。 「お兄さん、どこの人間だい?」 年配の戸澤と呼ばれた男が質問してくる。 「『ふくしま探偵局』で働いています」 「ああ、今、勢いのある所だ。名前は?」 「井上ですが・・・。あなた達は?」 「埜村組の松岡さんと戸澤だ」 聞いた事がある。最近、福島に進出してきた建設会社だ。福島駅西口にマンションを多く所有していると聞いた。 「これから、岡田さんを病院に連れて行く。大きなケガなら、明日、お邪魔する」  戸澤という男が、俺にぶつかってきた岡田を連れて、車に乗せて消えた。あっという間だった。  俺はそのままポテトハウスまで歩いた。1階にあるコンビニに入る。酒でも買わないとやってられない。俺はビールを2本、購入した。レジには「研修中」と書かれた若い男性が対応してくれた。 「2本で315円です」 俺は、1000円札を出した。 「最近、入ったの?」 「はい。3月からです」 「俺は上に住んでいる井上、よろしく」 「谷口です。よろしくお願いします」 爽やかな青年だ。人間にも色々いるものだと思った。  部屋に入ると、俺は一応、先ほど3人の男に絡めれた事を森川さんにスマホで報告した。 「わかった」 森川さんの返答は短かった。 「これからは明るい道を帰ってね」 「気をつけます」 俺は、焼き肉弁当とビールを飲んで、そのまま寝てしまった。  翌日、4月20日、火曜日。少し早めに出勤した。昨日の事を少し詳しく森川さんに報告しようと思ったからだ。しかし、事務所で森川さんに会っても、昨日の事は尋ねられなかった。細かい事を気にする森川さんにしては珍しい事だと思った。  この「ふくしま探偵局」には、特別な装置がある。それは、警報装置だ。小さな3つのランプがあり、赤、青、緑の色が付く。どの部屋にもその装置がある。この事務所には、最初の扉の上、受付との境に、事務室にいる全員から見える場所に設置されている。  「赤」の点滅は、外部からの侵入警報。「青」が避難警報。「緑」がその他の警報だ。  警報装置は誰でも押す事が出来るため、それぞれの机の横や下にある。特に受け付けの菅野梢さんが一番最初に警報を鳴らす事が多く、受付にもついている。そして、後から聞いた話だが、この「ふくしま探偵局」前にある大木ビル1階の受付、田中みなみさんもその警報装置を作動させる事が出来るらしい。  「赤」の侵入警報は、文字通り、何者かがこの「ふくしま探偵局」に侵入した時に点滅する。音は鳴らない。  「青」の避難警報は、それも文字通り、すぐ避難しなければいけない。森川さんに言わせると、「命が一番大切だから、仕事の書類を捨てても逃げる事」と力説された。この「ふくしま探偵局」は、階段とエレベータが唯一の出入り口だが、それ以外にも秘密の脱出口があるらしい。  そして「緑」。これが一番難しい。「その場の状況で判断すること」と森川さんに説明されたが、俺がこの「ふくしま探偵局」に来て1年。まだ、どの警報の色も点滅した事がなかった。  そして、今日、その中で「赤」の色が突然、点滅した。午前9時32分だった。最初に気がついたのは森川さん。 「誰か来るぞ」 俺と森川さんが立ち上がる。先崎さんと片平さんは所定の約束通り、局長室に入り、大木局長を守る。第2課の田中一男くんが菅野梢さんのいる受付に行って、彼女の身を守る。戸澤リカさんと岡崎愛子さんは、机に座り、事務所内の録音と録画を始める。さすが訓練されている「ふくしま探偵局」の人間達だ。手際がいい。  廊下から大きな声が聞こえてきた。 「井上という奴はいるか」 昨日、俺に因縁をつけてきた岡田という男だ。なぜかその隣りに左腕をつっている松岡がいた。そして、その後に戸澤。 「埜村組の岡田という者だ」 声が高い。 「昨日、井上がこの松岡さんにぶつかってきて、骨折させたんだ。この始末どうする!」 威勢がいい。すると、森川さんが3人に向かっていく。 「昨日、井上から聞いた話では、右足をわざとぶつけたとかでしたが、いつの間にか左手の骨折になったのですね」 嫌みがかかっている。 「ここに医者の診断書がある」 戸澤が懐から封筒を出す。森川さんがそれを受け取り、中を見る。 「村山治療院ですか・・・。ここ、普通の病院でないという話ですよね」 「文句あんのか!」 「警察に言いますよ」 「どうぞ、こちらは警察のお墨付きだ」 「お墨付きですか」 「ああ、今、先生を呼ぶ。先生!」  また1人の男が事務所に入ってきた。少し大柄な男だ。 「こちらは、福島県警を退職した警部さんだ。今、うちの組、いや事務所で警察との顔ききをしてもらっている。こんな探偵事務所が警察に吠えても、この先生がもみ消してくれるさ。なあ、先生」 「私は警察に顔が聞きますからね」 大柄な男が微笑む。 「うちは探偵事務所ではありません。探偵局です」 「どちっちも同じだ」 「治療費を請求しているのですか?」 「そんな微々たるもんじゃねえ!」 「では、何を?」 「そこにいる井上っていう奴は、ここの従業員だろう。井上が粗相をするという事は、ここの会社のしつけが悪いんだ。うちの埜村組で、松岡さんは重役なんだ。それが左手が使えないと、仕事に多大な損失が出るんだ。わかるだろう・・・」 「わかります」 森川さんは相手をからかっている。 「治療費の他に、うちの組、いや事務所に損害賠償費を出してもらえないかね」 「そんなに大きな会社ですか?」 「ふざけんな!福島駅西口開発と言ったら、埜村組だろう。松岡さんの左手がないと、今、建設中のマンションが期日内に完成しないんだ。すると、マンションを予約している客にこちらが賠償金を払わないといけない。1世帯1日10万。50世帯入る予定だ。松岡さんの完治に60日。10万×50×60で3億だ」 「それは大変ですね」 「3億、払えなければ、この土地をよこせ」 「本音が出てきましたね」 「何!」 「恐喝ですね」 「ですね、恐喝の現行犯ですね」 「ふざけんな!」 今にも岡田と松岡は事務室で暴れそうな雰囲気だ。 「この戸澤さんは弁護士だ。裁判所に訴え出てもいいんだ。そうすれば、裁判の手続き代もそちら持ち。新聞やテレビでここも叩かれる、仕事もなくなるぞ」 「やはり恐喝ですね」 森川さんが椅子に座る。そして、いきなりコンピュータを操作する。すると、壁に掛かっていた大きなディスプレイに画面が映される。  暗い画面。声が聞こえる。 「あれが井上だ」 「その柱に隠れて・・・」 声の持ち主は松岡と岡田だ。 「タイミングを計って・・・」 すると、画面が明るくなる。昨日の新幹線下の場所だ。柱の影に松岡と岡田が映っている。撮影しているのは誰だ? 「今だ」 小さな声で松岡が突っ込んで行く。そこに俺が映し出される。松岡が俺の足もとに倒れている。 「お兄さん、何、ぶつかってんだ」 岡田が騒ぐ。昨日の様子だ。 「俺も、見てた。お兄さん、わざとぶつかったよね」 そこで映像が終わる。という事はこの映像を撮影していたのは・・・。 「松岡さん、岡田さん、この映像を見る限り、そちらがわざと井上くんにぶつかりましたね」 2人が固まっている。そして、後にいる戸澤さんを見る。戸澤さんが笑う。 「警部さん、何とか言ってください」 松岡が警察OBに声を掛ける。 「2人共、何か間違っていませんか。今の映像を見る限り、悪いのは君達2人だ」 松岡と岡田が固まっている。 「先月、同じ手口で隣りのビルに入っている小料理屋を脅迫したよね」 森川さんが反撃に出る。 「すでに警察が動いていますよ」  すると、大勢の人間が事務所に入ってきた。ほとんどが警官だ。一番前には福島県警の霧島城司警部が立っている。ところがその横に、昨日、ポテトマンション1階のコンビニにいた研究中の店員、谷口さんが手錠をはめられている。 「この谷口が白状しましたよ。谷口がポテトハウス2階の井上くんの部屋に盗聴器を仕込もうとして侵入した所を、只今、逮捕しました。  埜村組がこの『ふくしま探偵局』を立ち退かせるために、3月から色々と仕込んでいるとね・・・。  まずは、松岡、岡田、恐喝の現行犯で緊急逮捕だ」  周囲の警官が2人を取り押さえ、連行していく。霧島警部は私や周囲の人に敬礼をする。奧から大木局長が出てきた。 「霧島警部、お世話になりました」 「後から、事情を聞きに来ます」 「よろしくお願いします」 「では・・・」 事務所には、「ふくしま探偵局」の人間の他に、戸澤と警察OBの2人が残っていた。 「そうそう、井上くん、紹介が遅れたね」 森川さんが立ち上がり、その2人のそばに行く。 「こちら『ふくしま探偵局』の第1課の2人だ。星守さんと戸澤慎二さん。どちらも警察を定年退職した方だ。噂は聞いていただろう」 固まった。話には聞いていた星守元警部と戸澤慎二元警部だ。 「福島駅西口開発と称して、少し前から、この辺りの地上げや恐喝が始まったの。2人は1年前からその根源である埜村組に潜入調査してもらっていたのよ」 大木局長が付け加えてくれた。 「戸澤警部は第2課の戸澤リカさんのお父さんでもあるけどね・・・」 片平先生も付け加える。 「2人はこのまま、休暇にしますか?」 「いいえ、忘れる前に報告書を作成します」 戸澤警部が第1課の机に座る。 「今のうち作成しないと、霧島くんに怒られるからね」 星警部も机に座る。星警部の隣りに座っていた梢さんが立ち上がり、2人にお茶を出した。 「久しぶりに『ふくしま探偵局』勢揃いですね」 先崎春美さんが嬉しそうだ。 「第4課もあるけどね・・・」 そんな課があると噂に聞いていた。 「井上くん、ごめんな。昨日、連絡があった時、話をすれば良かったのだけど。ここで君が顔に出ると、最後の締めが出来なくなるからね」 森川さんが俺に謝ってくる。 「大丈夫ですよ」 「私なんて、父の演技が臭くて、笑い出しそう、机の陰でこらえていました」 戸澤リカさんが笑っている。  戸澤警部は娘のリカさんと話をしていた。すると、星警部が森川さんの横に静かに座った。 「お話があるんですが・・・」 「ご相談ですか?」 「はい」 「娘さんの事ですか?」 「やはり、わかりましたか・・・」 ここまで2人は事務所で話をしていたが、2人で3階に上がっていった。  10分後、森川さんだけが事務所に戻ってきた。 「井上くん、明日から予定はないよね」 「はい」 これは、捜査のお誘いだ。 「どこですか?」 「東京さ」 森川さんはそのまま局長室に入っていった。5分後、笑顔で出てきた。 「今から行くぞ、12時の新幹線だ」 「わかりました」 俺はこんな緊張感が好きだ。俺と森川さんは12時の新幹線に乗った。そして、森川さんの話を聞いた。  星守元警部には2人の子供がいる。上が星高陽くんと言って、現在、父親の後をついで東京の警官になっているそうだ。下は星洋美さんと言って、二本松大学の音楽科に進学し、そのまま大学院に行ったらしい。そして、今年の4月から東京にある平城音大大学院作曲科に進学した。その洋美さんが4月に入ってストーカーに会っているらしい。というか命を狙われているらしい。  洋美さんは、東京でマンションに住んだ。近くの駅から電車通学しているが、先日、電車を待っている時、ホームで押され、線路の上に落ちたらしい。もう少しで電車に轢かれるところを、駅員さんに救助された。また、交差点が赤で待っている時、後から押され、大型トラックの前に突き出された。幸い、大型トラックの運転手が止まってくれて、事なきに。更に、平城音大のベンチで休んでいると、上から鉢が落ちてきて、目の前に落ちた。  星元警部の娘、星洋美さんは、森川さんの教え子だったらしく、今回、特別に星元警部からお願いがあったようだ。大木局長も星元警部の娘さんの話なので、特別に森川さんの出番になった。  東京駅で新幹線を降りると、そのまま平城音大に向かった。新しい建物。大きなキャンパス。鉢が落ちてきたというベンチを森川さんが調べた。ベンチの後に校舎があり、3階と4階に窓がある。森川さんは、建物の中に入り、その3階と4階の窓を調査した。コロナ禍の中なので、キャンパスに多くの学生の姿は見えなかった。  次に突き出されたという交差点に向かう。日中でも人通りが多い道。まあ、この中で押されても誰に押されたか判断するのは、難しいかもしれない。  それから、地下鉄の駅に。2番線ホームで電車を2つやり過ごす。やはり、東京はコロナ禍の中でも人の出入りが多い。待っている人間も多く、ここで犯人を捜すのも一苦労だ。それに、監視カメラの死角になっている。  事件現場を森川さんは一通り見ると、そのまま星洋美さんと待ち合わせの喫茶店に向かった。待ち合わせ場所は彼女のマンションの前にある喫茶店「オリーブ」。店内は落ち着いた感じで、何名かの学生がコンピュータを広げたり、教科書を出して勉強している。コーヒーの香りが漂ってくる。俺達が「オリーブ」に入ると、一番奥の席で、マスクをした可愛い女性が立ち上がった。 「森川先生、お久しぶりです」 どうやら彼女が星洋美さんらしい。お父さんに似ず、可愛い。 「こちらは、一緒に働いている井上浩くんだ」 「星洋美です。いつも噂は父から聞いています。森川先生の助手としてご活躍だそうで・・・」 俺はいつから森川さんの助手になったんだ・・・。でも、助手でもいいか。というか助手だし・・・。 「父が、忙しい森川先生にお話をしたみたいで、すみません。ちょっとの事なのに・・・」 「地下鉄のホームから落とされるのは、ちょっとした事じゃないよ。立派な犯罪だ」 「警察には?」 「届け出ました」 「それで、何か身に覚えのある事は?」 「警察にも父にも聞かれましたが、今のところ・・・」 「見てはいけないものを見たり、誰かの秘密を知ったり、知らないうちに恨みを買うような事は?」 「色々と考えてみましたが、何も・・・。まだ、大学に入学して2週間ですから・・・」 「星洋美さんの担当教官は?」 「作曲の麻生原明教授です」 「知っている。ゲームやCMなどの業界で頭角を表してきている人だね」 「そのようです」 「岩崎亮教授は?」 「岩崎教授には先週にもお話しました。森川先生の昔話など・・・」 「今回の事件の事は?」 「話していません」 「話したのは?」 「警察と父だけです」 「4月に入った大学院の同級生は?」 「いません」 「1級上は?」 「2人います。多見亜美さんと、柳田ケントくんです。大学では先輩ですが、年齢は私の方が上です」 「明日、一緒に平城音大に行こうか?」 「いいのですか?」 「もちろん。そのためにここまで来たんだからね」 「ありがとうございます」 「井上くんから何かあるかい?」  そう言えば、今年から俺のポジションが1つ上がった。昨年1年間は、森川さんと一緒に行動する時には、「出会った人の名前を覚える」「観察する」「話さない」の3つが仕事の条件だった。今年は、これに1つ加わった。「最後に振られたら、1つだけ質問できる」という項目だ。つまり、それまで俺は、周囲を観察し、仕事にプラスになるような質問を考えておかなければいけない。簡単そうに見えて、奥深く大変な事だ。どんな質問をするかで、俺の技量を森川さんに見られてしまう。  俺は考えに考えた挙げ句に質問した。 「マンションの部屋で、最近、変わった事はありましたか?知らないうちに物が動いていたとか?」 「そうですね・・・。たぶん、ないと思います」 「そうですか・・・」  星洋美さんは、カバンの中から封筒を取りだした。 「森川先生、私の作品を見てくれますか?」 「喜んで・・・」 「最近、作ったんです」 森川さんは、封筒の中から楽譜を取りだした。手書きではなく、印刷された楽譜で綺麗に見えた。 「そうだね。曲は斬新だね。二本松大学にいた頃より音に対する感性が伸びているね。  そして、楽譜も見やすくなってきているね。細かい所にも配慮を感じるよ」 「問題点はありますか?」 「そうだね・・・。演奏者がこの楽譜の内容をどれくらい理解して演奏出来るかという事かな。それに、バスクラリネット2台とコントラバス2台という編成だね。演奏機会の可能性が低くなるね。コントラバス4台なら、演奏機会があるけどね。バスクラリネット1台をアルトクラリネットにしても、音域は可能だね。その方が視覚的にも効果があるかもね。  それに、こちらの打楽器合奏の曲は、リズムといい、そのセンスが抜群だ。ただ、ドラ3台の音程付きというのが難点だね。シンバルの大きさを変えて、ドラの代わりにしても効果的だね」 「その案、頂いてもいいですか?」 「もちろんさ」 「森川先生に相談して良かったです」  俺と森川さんは、明日の朝の約束をして、その場で星洋美さんと別れた。俺たちは洋美さんがマンションに入るのを見届けて、今夜、宿泊するホテルに向かった。 「先ほどの質問、良かったよ」 口数の少ない森川さんに、褒められた。俺は少し自信が持てるようになってきた。なんだか、ちょっと嬉しかった。その夜は、珍しく1人で飲みに行った。  翌日、4月21日、水曜日。朝、2人で星洋美さんのマンションの前についた。彼女は私をマンションの前で出迎えてくれた。さすが、星警部の娘。しつけが良い。 「森川先生、何かわかりましたか?」 「昨日から進展はないけどね、私の感想だと、犯人は大学関係者の気がするね」 「大学関係者ですか・・・」 「1つの事件が大学の構内で起きているだろう。ベンチの上から鉢を落とすなんて、計画的だ。あの上には鉢植えはなかった。4階のどこかの研究室から持ってきたのだろう。他人に見られる可能性もあるから、予定しての犯行だろう。  犯人は大学内での洋美さんの行動をある程度把握していた可能性もある。  昨日、大学に行ってみたけど、私と井上くんが大学に入る時、入口でチェックを受けた。岩崎亮教授からの入校証がなかったら、大学に入る事が出来なかった。だから、大学校内に全く関係ない人間が入るのは難しい。  それに、地下鉄での事件も、交差点でも事件もどちらも大学の登校時に起きている。洋美さんのマンションから犯人がつけていた可能性が大きい。洋美さんがこのマンションに住んだのは、4月になってからだ。マンションの住所は大学にか届けていないだろう」 「はい」 大学に行くまでの間、森川さんが洋美さんに事件の説明をしていた。  3人で星洋美さんのゼミ教官である麻生原明教授の研究室を訪れた。洋美さんから連絡を入れてもらっていたので、研究室で俺たちを待ていてくれた。  麻生原明教授は少し腰が曲がっていて、50代にしては少し老けた感じがした。麻生教授は、森川さんの事を知っているらしく、そんなに警戒しないで話題に入る事が出来た。 「今は生活のため、ゲームたCMの曲を作っている」 そんな話をしていた。 「失礼ですが、麻生教授の専門分野は?」 「作曲というより、今は、音楽理論を専門に研究をしているよ」 「最近、ゲームやCMの他の作曲は?」 「しているよ」  すると、麻生教授は立ち上がった。机の後の棚から大きな封筒を取った。その中から楽譜が出てきた。昨日、拝見した星洋美さんの楽譜とは比べものにならなかった。というのも、音楽素人の俺から見ると、麻生教授の楽譜は手書きの楽譜で、洋美さんの印刷されたような楽譜から比べると、少し汚くみえたのだ。 「パイプオルガンの独奏曲だ」 「手が込んでいる曲ですね」 「わかるかい?」 「はい」 「まあ、10分程度の曲だけどね」 「演奏されたのですか?」 「夏の演奏会で初演してもらおうと思う。ここの音大の先生に演奏してもらおうと思っている」 「そうですか・・・」  森川さんは、楽譜を麻生教授に返した。    話が星洋美さんの事件の事になった。森川さんと洋美さんが事件の内容を麻生教授に詳しく説明する。麻生教授は初耳だったようで、大変、驚いていた。 「私も星洋美さんが、そんな事件に巻き込まれるような事をしたなんて、考えられませんね・・・」 「教授から見てもそう思いますか?」 「まあ、入学してまだ2週間ですが、毎日のように研究室に足を運んで、研究していますし、他の大学院生とも仲がいい。後輩の大学生にも丁寧な言葉遣いで、今のところ、非常に評判がいい学生ですからね」 「井上くんは何かあるかい?」 「平城音大の裏ネットの存在とか、噂を聞いていますか?」 「私はコンピュータが苦手でね。楽譜も手書きさ。だから、普通のコンピュータも持っていない。ネット情報は詳しくなんだ。他の先生や学生の方が詳しいから・・・」 「そうですか・・・」 俺達3人は、麻生教授にお礼を言うと、研究室を出た。 「岩崎亮教授の研究室に行こうか・・・」 森川さんが提案した。  俺たちは隣の棟にある岩崎亮教授の研究室を訪れた。 「久しぶりだね、森川先生」 「お久しぶりです、岩崎教授。こちら同僚の井上浩くん。こちら昨日お話した星洋美さんです」 俺と洋美さんは自己紹介をした。 「この研究室は、私が学生の時から出入り自由だったんだ」 最初は森川さんの昔話で盛り上がった。森川さんが指揮をした話やコンクールで殺人未遂を解決した話など、きりがなかった。 「ところで、作曲科の麻生教授の事ですが・・・」 「麻生教授がどうした?」 「昔は絶対音感があったらしいんですが、最近、絶対音感などが老化現象が進んでいますか?」 「人間の感覚の事だから、それは自分でしかわからないが、そんな事もあるかもね」  森川さんは、星洋美さんの事件を説明した。 「やはり、大変な事件だね」 岩崎教授も驚いていた。 「犯人は大学関係者だと思うのです」 「まあ、森川先生がそう思うなら、間違いないだろう」 「ところで、麻生教授の今までの作品や論文を見たいのですが?」 「彼の作品が何か今回の事件に関係するのかね?」 「それなら、大学のメインコンピュータに入っている。私のコンピュータで閲覧出来るから・・・」 「では、お願いします」 「私、麻生教授の研究室で仕事があるので、失礼します」 「では、帰る時、メールするから・・・」 「わかりました」 星洋美さんは、私達にお礼を言うと岩崎研究室を出て行った。森川さんは、岩崎教授の机の上のコンピュータと格闘していた。俺は岩崎教授にコーヒーをいれてもらって、森川さんの仕事が終わるのを待っていた。  途中で岩崎教授が授業のために研究室を出て行った。俺は森川さんに頼まれて、学食でお弁当を買ってきた。俺は唐揚げ弁当、森川さんにはお肉の入っていないのり弁当だ。1年間一緒に森川さんと活動した中で、この「のり弁当」が、一番、森川さんには無難だという事がわかった。もう少し高い幕の内弁当でもいいのだが、たまに唐揚げや焼き肉などが入っている場合がある。肉じゃがとか、そぼろとかいう場合もある。  学食から岩崎教授の研究室に戻ってきても、まだ森川さんは、コンピュータと格闘していた。そして、乗り弁当を食べながら、その作業は続いた。 「岩崎教授は気を利かせて、学生と食べてくるそうだ」 結局、2人で研究室でお弁当を食べた、  俺はその後、研究室にある難しい本を眺めた。「指揮法」「管弦楽法」「管弦楽の歴史」「近代指揮法」。俺はそれらの本を手に取る気にもならなかった。  午後2時。 「終わった・・・」 森川さんは言葉少なめだった。 「岩崎教授は、まだ授業だから、研究室は空けたままでいいそうだ」 「大丈夫なんですか?」 「大学生の時からそうだったよ」 森川さんは、岩崎教授にメールを打った。 「30分後に、先程の麻生教授の研究室だ。それまで、コーヒーでもどうだい?」 「勝手にいいんですか?」 「ここのコーヒー豆は、私が半年に1度、送っている豆だ。奥日光の方から頂いた貴重な品だから、大丈夫さ」  森川さんは、自分の部屋のように迷う事なく、豆やミルを取り出し、お湯を沸かすと、俺にコーヒーをいれてくれた。やはり森川さんのいれるコーヒーは絶品だ。 「美味しいです」 「だろう。昔、知り合いからコーヒーのいれ方を教えて頂いたんだ」 「誰です?」 「大木泰蔵さんの運転手の渡辺くんを知っているだろう」 「はい」 「彼さ」 「へぇ・・・」 「彼は昔、喫茶店で働いていたのさ。彼のいれるコーヒーや紅茶は私より美味しい。今度、時間があったら、いれてもらうといい」 「是非・・・」  そう言えば、先月、彼の作ったオムライスを、二本松市の「アンダンテ」で食べさせてもらった。美味しかった。人は見かけによらないものだ。  コーヒーカップを片付けると、岩崎教授が入ってきた。 「では行こうか・・・」 3人で隣の棟に向かった。麻生教授の研究室には、彼しかいなかった。 「星洋美さんの事件が解決したのですか?」 「まあ、そんなところです」 森川さんらしい。はやり名探偵だ。私達3人は椅子に座った。  俺はその時から、不快な感じになった。頭痛だ。 「失礼ですが、先程、見せて頂いたパイプオルガンの新曲の楽譜を見せて頂けますか?」 麻生教授は机の後から楽譜の束を取り出した。 「この曲の題名はあるんですか?」 「演奏会が近いので、そろそろ考えようと思っていたところだ」  森川さんは、先程、見ていたコンピュータからダウンロードした楽譜を取り出した。 「これは麻生教授が2年前に作曲して、演奏した弦楽四重奏『三日月から滴るウサギ』です」 森川さんがその楽譜をテーブルの上に置いた。そして、こちらが最近作曲されたCM曲の原本」 「そうだ」 麻生教授は2つの楽譜を見た。 「作曲家が手書きで楽譜を書く場合、ほとんどその作曲家の癖が手書きの楽譜に出ます。私もそうです。  そして、この3つの楽譜を見ると、明からに筆跡が違っています。わずか2年の違いですが、ト音記号、音符の玉、旗、休符の形など・・・」 「人は変わるものさ」 「そう、人間は変わります。でも、変わらないものもあります。  では、この楽譜は見た事はありますか?」 森川さんは、カバンから別の楽譜を取り出した。 「見た事はないね」 「これは、あるゲーム会社から借りた楽譜です」 森川さんは一体、いつ、こんな楽譜を手に入れたんだ?」 「先程、色々検索して、この楽譜に行き当たり、ゲーム会社にメールで相談して、外部に出ない事を条件に借りました」 「で?」 「このゲーム会社から借りた楽譜と、先生が最近、作曲したCMの楽譜、そして、パイプオルガンの新曲の楽譜の3曲ですが、ト音記号、音符の玉や旗、休符の形などとても似ていますね。というかそっくりですね。つまり、楽譜を書いた人間が同じだという事ですね」 「森川先生はは、何をおっしゃりたいのですか?」 麻生教授が少しいらついている。 「つまり、麻生教授はこの2曲を作曲していないという事です」 「君、いい加減にしないか!」 麻生教授が立ち上がる。 「麻生教授、先程から高音の2つの音がこの研究室に不協和音となって鳴り響いているのが聞こえていますか?」 この研究室に入ってから俺の頭に響いている不快な音はこれだったのか・・・。  立ち上がっていた麻生教授が座る。森川さんがポケットの中から2つの機械を取り出す。 「これはチューナーです。高音で2つの音を鳴らしておきました」 森川さんがチューナーの音を切る。と同時に俺の頭の中の頭痛が治まる。 「麻生教授はすでに高音に対する耳の機能が失われていますね」 研究室の空気が一転する。 「だから、今年、1年で大学を辞めようとしている」 「・・・」 「先程、岩崎教授にお聞きしました。  だから、麻生教授は自分の後任に、大学院2年生の多見亜美さんか柳田ケントくんのどちらかを据えようとしていますね」 「そうだ」 麻生教授は観念したようだった。 「でも、どうしてわかった。私の作品でないと・・・」 「『狼のうねり』です」 「純正律のかね?」 「はい。この麻生教授のパイプオルガンの新曲では、中間部分や最後の所に、完全5度の音が残り、多くの平行5度が出てきます。  しかし、麻生教授は、10年前の論文に平均律と純正律の弊害について書かれています。純正律の周波数3:2の純正5度を重ねていくと、オクターブが狂う事。完全5度が純正律1:5に対して、平均律1:4.9となり、特に残響の多いホール、教会音楽、パイプオルガンなどの残響に使用すべきでないと書いています」 「その通りだ。その0.1の違いをヨーロッパでは『狼のうなり』と呼んでいる」 「でも、ここまで麻生教授が嫌がっている『狼のうなり』を自分のパイプオルガンの新作に使用しています。  という事は、麻生教授の考えが変わったか、違う人間がこのパイプオルガン新曲を作曲したかですね」 「・・・」 「しかし、人間、滅多の事で考えは変わりません。特に教授とかいう立場に方、論文に記載した事がある方は、その考えを変えません」 麻生教授は黙ってしまった。 「あなたは、自分の耳の障害を知ると、大学院生の2人のうち1人に、自分の曲を書かせた。この研究室の跡継ぎをさせるという事を条件に・・・」 麻生教授は目をつぶった。 「星洋美さんは、先週、麻生教授のパイプオルガンの新曲の楽譜を、先輩の大学院生が手にしている場面に出会ったそうです。しかし、彼女は何の疑問も抱かなかった。同じゼミの先輩が勉強のために先生の楽譜を手にしていると・・・。  しかし、見られた学生にしたら、それが自分が麻生教授の代わりに曲を作曲している事がバレたと思った。研究室の椅子がなるなると思った。だから、星洋美さんを亡き者にしようと思った。  だから、洋美さんの跡を付けて、交差点で彼女を押したり、地下鉄のホームで押したり、学校のいつものベンチで座っている時、4回から鉢植えを落とした」 「一体誰が・・・」 「多見亜美さんは、秘かに心療内科に通院しています。彼女の入試申請書に書いてありました。高所恐怖症です。4階の窓から身を乗り出し鉢植えを落としたり、パイプオルガンのコンソールに上がる事は無理ですね。  という事は・・・」 麻生教授は顔を上げた。 「少し、私に考えさせてくれませんか」 ようやく麻生教授が口を開いた。 「岩崎教授、相談に乗ってくれますか?」 「私で良ければ・・・」 俺と森川さんは、2人に挨拶をして、麻生教授の研究室をあとにした。 「まあ、岩崎教授がついていれば大丈夫だろう」 森川さんは、星洋美さんにメールをした。その内容を見せてくれた。 「事件解決。後は、岩崎教授に任せました」 俺と森川さんは、夕方の新幹線に乗って、福島に帰った。  福島に到着すると、その足で「ふくしま探偵局」に向かった。2階の事務所に入ると、第1課の席に、星元警部、戸澤元警部、菅野梢さんが座っていた。俺達が事務室に入ると、星元警部が立ち上がり近寄ってくる。 「今回はお世話になりました」 「いいえ、偶然ですよ」 また、森川さんの口癖だ。 「今、連絡が来ました。  娘さんにいやがらせをしていた大学院生の柳田ケントくんは、今日付けで音大を退学になりました。また、娘さんの教官である麻生教授は今週で大学をお辞めになるそうです」 「ありがとうございました。娘には被害届けを出さないように話しておきます」 「ありがとうございます。被害届を取り下げてくれると、間に入った岩崎教授の面目も保たれるので・・・」 「今日は、私のおごりで、みんなで飲みませんか?」 星元警部が事務所で声を上げた。
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