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そんなある日、リリアナはメイドの変装の上に外套を着て、街に来ていた。
なにも森に隠れ住まなくても、街の近くにこっそり住むことだってできたであろうに、リリアナはそれをしなかった。
万が一見つかっても困るし、何より普通の生活に馴染めるような気がしなかった。
誰かの顔色を見て息をひそめて暮らすより、自分のままでいられる今の生活のほうがずっと気に入っていたのだ。
それに、今は魔女の系譜であることに誇りも持っている。
この国は本当の魔女の歴史を忘れてしまったのだ。
二百年前にあんな事件があったのだから仕方ないと言えばそうなのだが。
リリアナは、指南書を通して魔女の歴史を学んだ。
母の言っていた、呪術師に始まり、巫女になり、そして現在の魔女に至る経緯がそこには記されていた。
メインストリートから少し外れた所にある雑貨屋までやって来ると、リリアナはいつものように店主にお守りを卸し、その代金で必要な物を買い込んですぐに森へと戻った。
メイドの格好をするのは、「裕福な商家のお嬢様が窮屈な両親の元から逃げたくて、その資金を作るために作ったお守りをメイドに売ってもらっている」という設定だからだ。
無理があるかな?とも思ったが、雑貨屋の女店主は何か思うところがあるのか、随分同情してくれて買い取ってくれるようになったのだ。
森に入って少しすると、ギアンダがいた。
どこかに連れて行きたいのか、リリアナの外套を咥えてひっぱる。
「どうしたの?また誰か倒れているのかしら?」
ギアンダに案内されるままついていくと、彼女は道から外れた木立の奥でその足を止めた。
ギアンダはさらに奥を見つめている。
「この先に誰かいるのね。ありがとう、見てくるわ」
薄暗い木立の奥を目指すと、そこには背中に伏せる主を乗せた馬が、所在なさげに佇んでいた。後ろを気にしながら、悲しそうな目をしている。
倒れている人物は、それでも手綱をしっかりと握りしめたままだった。
重そうな甲冑に、紫のマント。兜はなかったが、マントと同じ色のサッシュベルトが見える。間違いなく、高位の騎士だ。最後まで戦うという鋼の意志でもあるのか、右手には剣が括り付けてあった。
リリアナはふと令嬢時代のことを思い出す。紫と言えば纏うことが許されているのは王太子だけのはず。王は赤、王妃は青、王太子は紫だ。だとすれば、この人物は出兵した王太子、ロレンツォ殿下ということになる。
リリアナがさらに近づき手綱を騎士の手から取り上げる。それでも騎士に反応はなかった。
そのまま背後に回れば、その背中や足に矢がいくつも刺さっているのが見えた。
森は暗く、馬上の人物には手も届かない。生死の確認もできず、まずは馬ごと安全な場所まで連れて行くことにした。
馬が歩き出して少しすると、馬上の人物が僅かにうめき声をあげたように聞こえた。
生きているかもしれない。
リリアナは逸る気持ちを抑え、できるだけ静かに馬を引いた。
小屋から少しだけ離れた人が横たわれそうな場所まで来ると、どうやって降ろそうか思案する。
しかし突然、その首に剣の切っ先があてがわれた。
びっくりして見上げると、うつろな目の王太子が身を起こし剣を突き出している。
「なにや…」
なにやつ、と言い切れないまま、その体が大きく傾き、馬から落ちていく。
リリアナが支えようと下に潜り込むも、彼女だけで支えられるものではない。少し離れて付いてきていたギアンダが、一緒になって下になってくれる。
だが男の体と、纏うフルアーマーがこの二人で支えられるはずもない。
あわや押しつぶされると思った時、リベルがマントの首元を足で掴んだ。
大きく羽ばたいた彼は梟とは思えない力で、王太子が落ちるスピードを抑える。
結果、王太子はずるずると馬からずり落ちるようになり、ギアンダとリリアナはその体を地面にそっと横たえることができた。
「ギアンダ大丈夫?リベル、ありがとう。あなた小さな体でそんな力持ちだったのね。さすがだわ」
リリアナが横たわる王太子に近づくが、今度こそ本当に気を失ったらしい彼は微動だにしない。だが息はある様子。
このままでは治療もできないので、矢のシャフト部分をへし折ると、甲冑をなんとか外していった。矢は全部で五本もあった。背中の三本は鎧のおかげで浅いようだが、それでも背中に矢じりが埋まっている。
右肩は貫通し、左足は浅い所に刺さったままだ。
これは外で手当するには無理があるかもしれない。だが目の前の家まで連れて行くこともできず、リリアナは仕方なくその場で治療することにした。
家から必要な道具を持って来ると、時々リベルの本を開きながら黙々と治療をする。
血の臭いに誘われた獣は、ギアンダが遠ざける。
引き抜かなかったせいか以前の兵士ほどの出血はないが、肩の矢は深刻そうに見えた。
「リベル、仕方ないわ。彼の意識を一度完全に奪いましょう」
リベルがすぐさま該当ページを開き、リリアナは呪文を唱える。
最初から気絶しているので見た目の変化はないが、今彼の意識は何をしても浮上しないはずだ。
背中の三本の矢を無理矢理引き抜く。肉の音がして、血が溢れた。急いで手当の呪文を唱えれば血は止まったが、肌の色は赤黒く変色している。だが先に他を治すために次へ移る。
次は足だ。ここはそう簡単に引き抜けそうな深さではない。
ナイフを消毒し、肉を切り開く。見えた矢じりを取り出すと、すぐに傷を塞ぐ呪文を唱える。切り開いたとは言え浅かったせいか、呪文だけでかなり綺麗に塞がった。
そして右肩の矢を改めて見ると、矢じりを掴む。酷い恰好なのはわかっているが、正面から足で肩を押さえると、一気に引き抜いた。もたもたしてると、その分だけ出血が多くなりそうだったからだ。案の定、抜いた傍から血が溢れてくる。
彼女はこれも急いで押さえつけるとまた呪文を唱える。見た目にはかなり塞がったように見えるが、内部で神経がどうなっているかまではわからなかった。
後遺症など何も残らなければ良いのだが。
やっと全ての矢を処置し、ふと顔を見る。そして初めて彼女は気づいた。
「ロレンツォ殿下…ではなくてレナート殿下!?」
彼は、王太子ではなくかつてリリアナをこの森に追放したレナートだった。
何があったかわからないが、きっと彼は身代わりになったのだろう。
そしてその途中で敵に襲われ、この森に逃げ込んだのではないだろうか。
「リベルどうしよう…とんでもない人を助けてしまったわ」
「ホー」
「そうよね、王太子殿下だったとしても問題よね…」
「ホーホー?」
「そんなこと言わないでよ。ほっとくなんてできないわ。とにかくお目覚めになるまで看病しましょう」
「ホー」
「ありがとう、頼りにしてるわ」
それから奪った意識を少しずつ戻す。
一気に戻すと、急激な痛みに悶絶することになる。
それでも段階的に戻すたびに、レナートの顔には苦悶の表情が浮かんだ。
その日はずっとレナートの傍で火の番をしたり、時々痛みを和らげる呪文をかけたり、水を飲ませたり…熱がないのがせめてもの救いだったが、苦しそうな様子はずっとあった。
「殿下…頑張って下さい…」
夜が更けても額に浮かぶ汗をぬぐってやり、傷薬を塗り直す。
広い背中から久々に感じる、動物以外のヒトの温もり。
他人とあまりいい関係を築けてきた経験があるわけでもないのに、リリアナは人恋しかった。
ルチアや義母には嫌な目にあわされたし、人間社会から追放もされてしまったけど、それでもリリアナは誰かを憎む気にはなれなかった。
それにもし強く憎んでしまったら、魔女であるリリアナはその力で何かを引き起こしてしまうかもしれなかった。
母は何が起こるとはっきりは言わなかったが、強い感情には注意するようにとよく聞かされた。
かつてリリアナに優しくしてくれた彼の頭をそっと撫でる。狼の固い毛並みとも梟の柔らかな羽とも違う。
彼女は近くの木の根元に座ると、外套を巻きつけ彼の様子を見守ったまま眠ってしまった。
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