138人が本棚に入れています
本棚に追加
7 想い出に罪はないはずだから
+ + + + +
使い魔の章
異界の住人は術師と契約をした場合にのみ使い魔として現世に現われることが可能となる。
そして術師の許可なく無暗に異界の力を行使してはいけない。
使い魔は秘術に必要な力以外は極力現世に干渉しないものとし、過不足なくその力を流すことが求められる。また、術師も使い魔に過剰な要求をしてはならない。
契約を違えた時、術師は使い魔に己の心臓を喰われ、使い魔はあらゆる世界から消滅する。
+ + + + +
朝霧漂う泉の淵で、リリアナは一人泣いていた。
「笑顔は武器」とリリアナに教え、魔女として捕えられても心配して牢まで来てくれたレナート。
追放のその時も、同情なのか一振りのナイフをよこし身を案じてくれた。
ダンスを踊って以来接点を持つことはなかったが、それでもリリアナの心に大切な思い出としてずっと残っていたのだ。
あの時の手へのキスの感覚が、今も忘れられないというのに。
「…っく、ひっ……っふ…う…」
抱えた膝が、涙で濡れていった。
止めようとしたくても止まらない。
茶色い梟が一羽、音もなくそばに降りた。リリアナの体に寄り添う。
「ふ…ぅ…ちがうの…すきとかじゃないの。あこがれはあったけど」
リリアナは梟に語り始めた。誰かに一緒に受け止めてもらわないと、感情が爆発してしまいそうだった。
「そうじゃなくて、レナート殿下なら、魔女と言っても、きっとなんとでもないと笑ってくれると、どこかでそう思っていたの…ずっと、魔女じゃないって信じてくれていたのに、私、裏切ってしまったんだわ…」
「ホッホー」
「そうね。魔女は悪くないわ。私が勝手に、レナート殿下に理想を押し付け、彼だけは理解者と思い込んでいたのよ。ルチア様の言う通り、慢心してたんだわ…うぅ…」
それからしばらくの間、彼女はそうして泣いていた。
どれくらいそうしていたのか、やっと涙も収まってくる。
泣きはらした顔は、きっとぐちゃぐちゃだろう。
夏でも冷たい泉の水で顔を洗うと、少しだけ気持ちもすっきりした。
「ホホー?」
「だめよ。そんなことはできないわ。彼はこの国の王子よ。それにきっと戦争で何かあったんだわ。ちゃんとお城に帰っていただかないと」
「ホー…」
「ありがとうリベル。きっとお城で殿下のお兄様が心配してお待ちだわ。寝てる間にそっと手当して、なんとか帰れるまで回復してもらいましょう」
飛び出してきてしまったので、レナートも空腹だろう。もう日が高くなってきている。何か口にしなければ、体力も戻らない。
「それにね、先に思い出を頂いたのは私だわ。殿下は迷子になった私をちゃんとエスコートして、その上ルチア様からも庇ってくださった。この思い出を良い物のままにするかどうかは、私の心ひとつよね。素敵な思い出は、素敵なままにしたいわ…」
今のリリアナが彼にどう扱われたかはともかく、過去は変わらない。
そして彼はこの国には必要な人物だ。若くして騎士を率い、敵を何度も退けている猛将なのだ。今回何があったのかはわからないが、その彼が致命傷とも言える傷を受け、ロレンツォ王子の姿をしていた。身代わりで逃げなければならないのっぴきならない事情があったのではないか。
彼女は自分の境遇と国の行く末は別件と捉え、小屋に戻ることにした。
だが傷は気になるが、起きているようなら見せてもらえないかもしれない。
小屋の裏から、そっとレナートが寝ている場所を覗く。
しかし彼はいるはずの場所から離れてうつ伏せのまま倒れていた。
「殿下…?殿下!?」
駆け寄っても反応がない。
包帯から血が染みて、体の下の土は黒くなっていた。
「無理して動いて傷が開いてしまったわ!出血はそこまでなさそう…すぐ塞がないと!」
ずれた包帯を外し、傷を確認する。どの傷も僅かに開き、血を流していた。
部屋から包帯用の布と月光の水を持って来ると、傷口を洗い流した。
この月光の水は万能で、神聖な力を秘めている。傷を流すのに使えば消毒液のような役割を果たし、他にも薬に混ぜたりといくつもの用途があった。
半分減った瓶を置くと、布で水分を拭き取り、治癒の術を唱えた。
「雪下の蒲公英…」
「やめろ…」
レナートが薄目を開け、呻くように言った。
「でも傷が開いています。出血は少ないですが、これでは治りません」
「王家が魔女の施しを受けるわけにはいかない…」
「殿下に本当のことを言わなかったことはお詫びいたします。どうか傷を治させてください」
「俺はお前を追放した身だ…いらぬと言うのに、なぜそこまでする義理がある」
綺麗になった傷口から、また血が滲み出ている。
触っていいものかもわからず、地面へと落ちていくのを見つめるしかできない。
「殿下、お願いです…」
「無用だ…っ」
彼は頑なにリリアナを拒否すると、無理に体を起こそうとした。
足と肩に激痛が走り、傷から血がドクっと溢れる。
「クッ……」
悔しそうなうめき声のあと、また伏せて動かなくなった。
気を失ったようだ。
その隙にリリアナが駆け寄り、持っていた布で傷口を押さえる。
いつもはゆっくりと集中して唱える術を、早口でまくしたてた。
布を外してみると止血はできたようだ。
痛々しさの残る背中に毛布を掛けると、逃げるように小屋に戻った。
黙々と道具を棚に戻し、朝食の準備を始める。
忠実な梟が見つめる主の背中は、少し寂しそうだった。
最初のコメントを投稿しよう!