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「こんにちはギアンダ……大丈夫よ、気にしないで。…ダメよ食べちゃ!……わかったわ。どこか教えてくれる?」
ヴィヴィアーナがまた誰かと話している。
食べる?もしかして俺をか?
一体何と話しているんだ…
意識が浮上したレナートの耳に、一方通行の会話が聞こえた。
続いてガタガタと音がしたかと思えば、ギッと音がして扉の開く気配がした。
タタタッという四つ足の音の後に、小さな靴音が聞こえる。
レナートは目は閉じたまま、音だけ聞いていた。
四つ足の気配が眼前まで来るとふんふんとにおいを嗅がれる。それなりの大きさがありそうだが、一体何を連れているのだろう。
「ギアンダ、ダメって言ったでしょ。案内してちょうだい」
小声で彼女がそう言うと、四つ足の気配は離れて行った。
ヴィヴィアーナの気配もなくなったと判断し、薄目を開ける。
木立を分け入る深紅の外套のヴィヴィアーナと、大型の狼の背中が見えた。
あれが自分の目の前にいたのかと思うと、さすがにぞっとする。
「何をしに?」
耳をそばだててみるも、もう遠くへ行ったのか森のざわめきしか聞こえない。
それにわずかに川の流れる音。
川…喉が渇いた。
なんとか這っていこうと体に力を込めるが、足と肩の痛みが尋常ではない。
足は我慢すれば動かせそうな気配はある。
だが肩は力の入れ方すらわからなかった。
右は利き腕。矢の刺さりどころが悪く、神経を傷つけたのだろうか。
剣をもう持てないかもしれない。
不安がよぎった。
剣を持てない自分など、この国に必要だろうか。
終わりの見えない戦に決着も付けられないまま、傍観するしかなくなるのだろうか。
自由に動く左手を握りしめたところで、一歩も前に進めていない。
だめだ、諦めるな。
諦めなければいつかは辿り着く。
どれくらい格闘していたのか、額に脂汗をにじませて這いずり回っているうちに、リリアナがどこからか戻って来た。
無茶をするレナートを見つけ、軽く悲鳴を上げた。
「何をなさっているのですか!?傷がまた開いてしまいます!」
「お前には関係ないだろう」
「あります!おやめください、動かないで!」
レナートにすがり、その手を掴む。
だが振り払われてしまった。
「触るな」
「いいえ触ります。治療もします。そのままでは治すどころか、死んでしまいます!リベル!少しだけ手伝って。殿下を小屋にお連れして」
リリアナが誰かを呼ぶと、今までどこにいたのか、突然茶色い執事服のような若い男が現れた。まっすぐな長い髪も茶色で、後ろに綺麗に纏められている。目はシトリンのような黄色。
彼女が不審な会話をしていた相手もこの男だろうか?
「俺にかまうな」
細身の男はレナートより小柄だ。だが体格差をものともせず、無言でレナートの左肩を支え強引に立たせた。
「ぐぁっ…」
「リベル、お手柔らかに…」
「お断りいたします。リリアナ様の心の痛みはこんなものではないと思いますので」
冷え冷えとした男の声は、明らかにレナートに敵意があった。
半ば引きずられるように連れて行かれると、大きなクッションの上に寝かされーー落とされた。
「ぐっ…」
「ちょっとリベル…ありがとうもういいわ」
レナートが苦痛に歪んだ顔を上げた時にはもうリベルという男の姿はなくなっていた。
すぐにリリアナが手当てを始める。
「クソ…かまうな」
「いいえ。縛り付けてでも治療します」
「なぜそこまでする?俺はお前を追放した男だぞ?野垂れ死んだところで関係ないどころか、むしろ喜ばしいはずだ!」
「喜ばしいわけないです!良き想い出を下さった方が目の前で苦しんでいて、助けないわけないじゃないですか!」
「…良き想い出?」
「殿下はお忘れかもしれません…でも私には大切な想い出でした。侯爵邸では辛いことがあっても、笑顔でいれば助けてくれる使用人の方もいました。殿下が与えて下さった武器です。そして殿下はこの国の武器ではないですか。早くお戻りにならないと困る方が大勢いらっしゃいます」
迷子と判断しエスコートすれば困ったような表情を浮かべ手を取った少女。
主にののしられ、見世物のようにされ、それでもじっと耐えていたあの横顔。
亡き母から教えられたと嬉しそうに話し、軽やかに踏まれるステップ。
華奢な腰に、グローブの下の柔らかな手。
自分だけに向けられた、屈託のない笑顔。
「忘れていない…俺の中にも思い出として残っている…俺のは…穢されてしまったと思ったが」
「覚えていて下さったのですね…。殿下、お願いです。治療をさせてください。もしどうしても追放したはずの魔女が生きていることが罪だとおっしゃるのなら、治ったあとにお好きなようになさってください。殿下の剣はあちらにございます」
リリアナが手を差し出した方を見れば、壁の棚の一つに自分の剣が横たえられていた。血のりがひどかったはずだが、綺麗に手入れされていた。
レナートは首を横に振る。まだ拒否をするのかと思えば、そうではなかった。
「一つの罪に刑は二回執行できない。君にはもう既に追放という刑が執行された。罪があるというのなら、それでもう償われているんだ」
「お前」という激しい言い方から、「君」に変わった。
「君自身にもう罪はない。罪はないんだ…」
それはリリアナに言っているというより、自分に言い聞かせているように聞こえた。
「殿下…出血が酷いです。触れてもよいですか?」
まだどこかに抵抗が残るのか、無言で、でも首を縦に振った。
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