3 故郷の香り

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3 故郷の香り

+ + + + + ☆遠くの地より迷いなく帰るまじない  郷里の風、北の一番星。 ・送り届けたい対象の無事を願う文言を入れるとなお良い。 ・感じた香りに逆らうことなく身を任せること。 ・郷愁を呼び起こす香りがない者には効果はない。 ・オニキスにより惑わす者から身を守る場合は、対象にまじないをする前に持たせる。   + + + + +  ランプの灯りだけが頼りの森の中。  既に日は落ちてしまったが、日中であっても生い茂る木々のせいで森は暗い。  ヴィヴィアーナを森の深部に追放した帰り道、先を行く兵士が馬の歩みを止めた。 「どうした?」  不審に思ったレナートがそう尋ねるも、彼にも止まった理由はわかる。  暗くてよく見えないが、いつの間にか道から外れている気がした。  元々人の往来などほとんどない森の中。  しかも追放の刑にも使用されるような森に好んで入る者などいない。  馬一頭分くらいの幅で続いていた、獣道より少しマシな土の道だったはずなのに、今は背の高い雑草が茂っていた。 「殿下、申し訳ございません。道を違えたようです」  レナートは視線を上にやった。  空を見れば星の位置で街の方角くらいはわかるはず。  だが頭上を覆うのはうっそうと茂る木々の葉。風が吹いた時に揺れた葉の隙間から辛うじて月の光がちらつく程度だ。  来た道を戻るか、このまま進むか。  ここに留まることだけは避けなければならない。森の獣に襲われてはひとたまりもない。  大の男、しかも兵士も共にあり、帯剣している自分でさえ道に迷えば僅かながらに恐怖を感じる。先ほど置き去りにしたばかりの少女は、今どんな恐怖の中にいるのだろうか。  「笑顔は武器になる」とかつて彼女に言った。別れ際の寂しい笑顔を思い出し、なぜか胸が鷲掴みにされるような感覚になった。あんなのは笑顔とは違う。ダンスのリフトを無邪気に喜んだ顔が本物の笑顔だ。    その時、彼の背後から風が通り抜けた。  自然にそよぐ風と言うより、誰かが通り過ぎた時に感じる微かな風圧。そんな風だった。兵士たちも感じたようで、一同はなんとなく風の通り過ぎた先を見てしまう。 「殿下!あれは灯りでしょうか?」  先頭にいた兵士が、風の先に一点だけ揺らめく蝋燭の光のように頼りない光を見つけた。レナートの目も同じ光を捉える。  常識的に考えてこの森に人がいるとは思えない。  このような場所には、人を惑わす邪妖精や、さ迷う霊の類がいるとの噂も聞く。  レナートはそれらを信じてるわけではなかったが、あり得ない光に走り出したくなる気持ちを一瞬抑える。  だが、どうにもあの光に付いていきたい、そんな衝動がこみ上げる。  そんな彼の背中を後押しするかのように、もう一度風が通り抜けた。  どういうわけか、その風の中に焼き立てのパンの香りがした気がする。  脳内に、王宮の自室に運ばれる朝食の光景が浮かぶ。  焼き立てのパンと添えられたバターの香り。  軍部に所属する彼にとって、戦地ではなく自室で取る朝食の香りは、生きて朝を迎える平和の香りだった。 「なんか…いいにおいがしませんか。花…みたいな…香水?」  最近恋人ができたばかりの、後ろにいた兵士がぽつりと言う。 「花?俺はパ…パッショーネ・アロマティコだな」  なんとなく“パン”と言うのが恥ずかしい気がして、咄嗟に南部原産のワインの名前を出してしまった。  自分は体格も顔つきもいかつい自覚があるので、パンの香りに平和を感じることは誰にも言ったことがない。  そして先を行く兵士は「おふくろ特製鶏の煮込みの香り」と答えた。  なぜ皆違う香りを感じたかは不明だが、共通して言えるのは「郷里を思い起こす」だった。  進むか迷っているうちに、どこからか低い唸り声が聞こえた。全員が顔を上げたので気のせいではないはず。 「光へ向かおう」  レナートはそう言うと、自ら先頭に立ち馬を進めた。  馬を進めているので風圧は感じないが、時折パンの香りが漂うのは先程と同じように風が吹き抜けているのかもしれない。  やがて草を踏みしめていた馬の蹄の音が、少し乾いた固いものに変わる。  土の道に戻ったようだ。    近づいているはずなのにずっと同じ大きさの光は、相変わらず前方に見えている。それに向かって馬を進めれば、やがて森の出口へとたどり着いた。  視界が開け、頭上に星が散らばる。 「抜けられましたね」 「なんか風に導かれた感じがします」  部下が安堵する中、レナートは森を振り返った。  追放された彼女も、この風に導かれれば或いは…    なぜそんなにも気にしてしまうのか…恐らく多少顔を知った貴族令嬢だからどこか同情しているのだろうと自分で分析した。  もう終わったことだと言い聞かせ、そうすれば頭から追い出せるとでも言うようにかぶりを一つ振る。 「帰還する」 「はっ」  彼らを惑わす森はもうなく、無事王宮までたどり着いた。  兵士たちはすぐこのことを忘れたが、レナートの心の隅には残ることとなった。
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