5 森の魔女

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 それから二週間。  森の緑は濃くなり、夏が近づいているのを感じる。  リリアナは今夜は満月なので、月光の水を採ろうと支度をしていた。 「水盆、瓶に、漏斗…漏斗…あった。あと狼…狼?」  支度をするリリアナの傍に、いつのまにか大きな狼がいた。ふさふさだけど、ちょっとちくちくする毛がリリアナの腕のあたりに触れる。 「あらギアンダ、来てたの?今から泉に行くけど、一緒に行く?」  ギアンダと呼ばれた狼は、そう言われると傍にあったランプを咥えた。行くということだろう。  森の生き物は、大体リリアナの知り合いだった。  リスや小鳥のような可愛いものだけでなく、カエル、ヘビ、そしてこの狼にいたるまで。   追放されたその夜、彼女は木の根元で眠りについたが、明け方目を覚ますと体に寄り添うようにこの狼が一緒に寝ていた。  勿論驚いたが、おかげで薄いワンピース一枚の彼女は寒さを感じることなく一晩過ごせた。春とは言え、暗い森は外よりも気温が低いのだ。  どうやらリリアナの中に流れる魔女の血は動物を従える力があるらしい。  彼女にしてみれば従えているのではなく、仲間という感じなのだが。  目が覚めた狼の目は思ったよりクリクリしていて可愛らしく、「ギアンダ(ドングリ)」と名付けた。  ギアンダが照らす足元だけでは夜の森は少々歩きにくい。 「妖精さん、妖精さん、蛍みたいな妖精さん。一緒に泉に行きませんか」  家を出た彼女が歩きながらそう呼びかけると、いつの間にかふわふわと漂うように、蛍のような光が道を照らした。正体はよくわからないが、蛍みたいな妖精と呼び掛けると出てきてくれる。 ランプの中に花やハチミツを入れておくと一晩中にいてくれるので、たまにランプの中に入ってもらうこともあった。    十分ほど歩くと川に辿り着く。そこからさらに十分ほど上流に向かうと泉が見えてきた。  泉の周りだけ木々が開けているので、月明りがよく見える。  彼女は岸辺まで来ると、荷物の中から水盆を取り出し、泉の水で中を満たした。  満月が盆の真ん中に映るように位置を動かし、あとはそのまましばらく放置だ。  ギアンダがランプを下に置き、地面に座ったリリアナの隣に丸まった。  蛍妖精は水盆を避けて泉の方へ飛んでいくと、ひと固まりになって漂っていた。時折ポンと一つだけ飛び出すのは、何か遊びでもしているのだろうか。 「リベル、おいで」  彼女は梟を呼ぶと、どこにいたのか空からスーッと舞い降りた。  リリアナの前に着地すると、ホーと一声鳴いた。それに合わせてギアンダの片方の耳が一瞬だけぴくっと動く。 「リベル、私の知らない治癒の方法は他にないかな?」  そう言うと、リベルはリリアナに背を向けた。  そして翼をバサっと広げると、梟の表紙がついた一冊の分厚い本になる。  彼女が母亡きあとも秘術を学ぶことができたのは、このリベルのお陰だった。  魔女の指南書とも言えるこの本は、望んだ秘術の知識を主に授ける。  この一年、彼女は本を通して様々な魔女術を学んだ。  森の生活に必要な秘術を実際に使い、それまでの生活では考えられないほど魔女らしくなったと言っていい。    追放されるきっかけとなったあの日までは、ほとんど使ったことはなかった。  ではなぜルチアだけ彼女が“おまじない”をできると知っていたのか。 リリアナの母亡き後、父の後妻となった義母に「勉強のため」と体よく屋敷を追い出され、行儀見習いの侍女としてルチアのいるベルニーニ侯爵家へやって来た。 屋敷に来た頃、ルチアはまだ不慣れな彼女にいたずらをするために領内の森に置き去りにしたことがあった。  当然右も左もわからず、森で怯える彼女が見れるはずだった。  しかし彼女は平然と、しかもたいして時間もかからずに帰って来たのだ。  飄々とした様子に腹が立ち、ガーデンキーパーの男を使って「丁寧に」問い詰めれば、彼女は泣きじゃくりながら「おまじないです」と答えた。  ルチアははぎ取らせた服をヴィヴィアーナに投げつけながら、「だったら私のために使いなさい」と命令した。  それ以後、何かと「こんなまじないはないか」「まじないでどうにかしなさい」と度々無茶を言われ、彼女は必死にできることとできないことがあることを訴え誤魔化してきた。  人を傷つけるようなことを言われた時は、どんな嫌がらせをされても「知らない」で通した。  森の生活で彼女に秘術を強要するものはいない。  自由に、誰の目を気にすることもなく、自分らしくいられることができる。  母がいた期間を除けば、森で過ごしたここ一年彼女は人生で最も幸せと言えた。  本を読んでいたリリアナは、水盆の様子を見に岸辺に行くと盆を覗き込んだ。  素人が見てもただの水だが、彼女には十分な成果が得られているように見えるらしい。  漏斗を使い瓶に移すと、荷物から小さな箱を取り出した。中から銀でできた小さな玉を取り出すと、瓶の水の中に落とす。 「銀の魚よ目覚めなさい。あなたは月光の水の管理者よ」  瓶に向かってそう言うと、瓶底に落ちた銀の玉が魚の形になり泳ぎ始める。  これで月光の力を蓄えた水は魚が泳いでいる間ずっと保たれる。  彼女は「よろしくね」と言うと、瓶にコルクを差し込んで鞄にしまった。 「リベルありがとう」  そう言うと、本だったリベルがまた梟に戻り空へ消えてった。  丸まっていたギアンダもランプを咥え立ち上がり、泉で遊んでいた蛍妖精が一列になって戻って来る。 「さあ帰りましょう」  その時、川の方から人のうめき声のようなものが聞こえた。  蛍妖精が一斉に散ってしまい、闇が強くなる。  リリアナはギアンダからランプを受け取ると、声のした方へと歩いて行った。 「ホー」  川の傍に人が倒れている。  リベルが一足早くその姿を発見して既に近くの枝にとまっていた。リリアナが来ると一声鳴いて知らせる。  水が飲みたかったのか、その人物は川に右手を突っ込んだまま気を失っていた。  背中に矢が刺さっていた形跡がある。自分で抜いたようだが、無理に抜き取ったのでおびただしい量の血が服を染め上げていた。  恐らくは兵士。甲冑は脱いだのか着ていない。位置的に、甲冑の隙間に刺さったのかもしれない。  リリアナは兵士の首に手をやると、僅かだが脈を感じた。  このままほっとけば朝になる前には死んでしまうだろう。  動かさずに、すぐに治療を施す。  ナイフを取り出し、傷のあたりの服を切り裂いた。  普通の令嬢なら気を失いそうな、めくれ上がった肉と流れる血。 「ギアンダ、持ってて」  ギアンダはランプを咥えると、傷の近くを照らした。  リリアナは腰のエプロンを取ると、傷口を押さえて傷薬を作った時の呪文を唱える。 「雪下の蒲公英、柘榴の果実。さあ頑張って。傷を治すのよ」  肉が蠢き、塞がろうと集まってくる。しかし深手のそれは完全に塞がることはできず、途中で止まってしまった。  止血だけはできたようで、それ以上の出血は起きず、ピンクの傷口から骨は見えない。  しかしとにかく出血量が多く、予断は許さないはずだ。 「リベル、血を増やすことはできないかしら」  枝から降りたリベルが、背を向け該当ページを開いた。 「血…血…あったこれだわ。失われた血を取り戻す秘術…生きた血を用意し…」  一通り呼んだリリアナは、早速書かれたことを試す。  生きた血…すなわち人間から今流れ出る血を傷口から体に飲ませる。  彼女はナイフで自分の手のひらを突き刺すと、傷口に押し付けた。  そして書いてあった呪文を唱える。 「我は命の川なり。我は胎、汝は赤子。お飲みなさい、生きるのよ」  リリアナの血は兵士の背中を伝って流れることなく、傷口が飲んでいるかのように吸い込まれる。  失血量は多いだろうが、リリアナも大量に分けるわけにはいかない。  サーっと気が遠くなりかけ、地に引っ張られるような重さを頭に感じた。それ以上はリリアナも倒れるような気がして、傷口から手を離した。 「はぁ…足りるかしら?でもこれ以上は私にも難しいわ。あとはあなたの生命力で頑張るのよ」  兵士を川辺からひっぱり、木の根元まで連れてくると盛り上がった根っこの上に葉がついた枝をいくつか置き、即席の枕にする。そこに横向きに寝かせてやると、ポトリと何かが落ちてきた。  血を分けている間にリベルが家から持ってきた、傷薬と布を割いて作っておいた包帯が入った袋だった。 「ありがとうリベル。あなたって本当に気が利くのね」 「ホー」  リリアナは傷薬を塗ると重ねた布を当て、包帯代わりの布でくるくると巻いた。少々下手な巻き方だが、彼の生きたい意志が強ければ助かるだろう。  最後に大きめの葉を丸めコップ状にすると、川の水を汲んでくる。  顔を上向かせ口の中に少しずつ流してやると、コクリと喉が動いて飲み込んだ。  その時、獣の唸り声が近くで聞こえた。  血の臭いを嗅ぎつけてやって来たようだ。 「ダメよ。悪いけどあなたたちのごはんじゃないの。他をあたってちょうだい」  少しすると走り去る音が聞こえた。わかってくれたらしい。  リリアナは着ていた外套を兵士に乗せてやると、一度小屋に戻った。
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