生まれ変わる瞬間

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生まれ変わる瞬間

月の表面を一匙掬ったような、銀灰色の瞳をした彼女は動揺していた。 「愛してる人が居るんだ」  彼らが幼い頃に親同士が口約束で決めた婚約関係だった。行使される事はないと思っていたが、近頃その現実みが増していた時だった。彼は二十五で、女はまだ大学を卒業して間も無い。 男は外務省に務めている花咲かしの魔法使いで、その魔力にふさわしく優しい人だった。そして何よりも腹の底を隠さない正直な青年だった。 「……愛してる人?」 「あなたは別に俺の事、好きじゃないでしょ」 「それは……そうだけど」 「それに、あなたと俺が結婚して子を成しても春の魔女の力を受け継いだ子どもは生まれない。わかってるよね」  夏の暑さがいくばくか和らいだ青い夜の事だ。月は白く、煌々と辺りを照らしている。夜だと言うのに、彼の表情もよく見えるくらいに。 「俺はあなたとセックス出来るとも思わないし、あなたも自分の人生を生きた方が良い。僕はもう周囲の人間の為に生きるのは嫌なんだ。あなたはこの国にいる限りは迷信に憑りつかれた人間にとりつかれる。だから、この国から出たいと言うなら手助けをする」  母親の認めた男だから、間違いないと思っていた。暗くて狭いトンネルから出口の灯りを目指して這いつくばる必要がなくなるとと思っていた。だから、彼女は強く頭を天井に打ち付けてしまった様な気がした。婚約破棄がショックなのではない。また母親に、お前がいけないからと怒られる事を想像して、女はショックを受けたのである。 「どうやって……?」 「君に新しいパスポートを渡す」    ほら、と言って彼の胸元から出されたパスポートはつい昨日交付された日付が記されている。それだけじゃない、このヨーロッパ一帯で使える共通の新たな身分証も彼は彼女に差し出した。彼女は驚き、目を丸くする。 「渡航先での当分の資金の工面も約束する。……婚約を無かったことにすれば俺は最高だけどあなたは違うだろう。母親が怒る。母親にずっとずっと憑りつかれた人生を送ることになる」  母親のいない人生という言葉に彼女の心は金魚の尾がたおやかに揺れるように、揺らいだ。 「今あなたが持っているパスポートは抹消する。その名前の女は外務省上存在しない。船も飛行機も使わないから、パスポートを使って君を追跡することは出来ない。あなたが本当に、ただの自分としていきたいなら手助けしよう」 「……でもばれたら」 「ばれないよ。あなたのお母さんには、一緒に夏休みに行ったと言う。だからあなたも、旅行用の鞄に、身分証を持ってるんだろう?」 「だって、本当に旅行にいくのかと」 「バカンスシーズンの最終週だからね。でも僕は女が嫌いだし、女と寝食一緒なんて出来ない」 「え?」  銀灰色の瞳をした女は眉間に皺を寄せたが、男は忙しなく言葉を続ける。こっちにきて、と手招きするとエアコンもついていない古い車があった。 「あなたはこれから、この車に乗ってフランスに行く」 「私、フランス語なんか」 「ルストレの国籍を捨てた親友がいる。偶然にも語学学校の先生をやっているんだ。まずは三か月分の授業料は彼に振り込んでるし、彼にも事情を共有している。そあなたが、異国であなたとして生きたいなら俺は助ける。当分の資金もここで渡そう。本当は俺のクレジットカードを渡したいが、それはできない。足がつくから。今から走れば夜明けにはフランスにつく」  男は彼女が持っていたボストンバッグを奪い、車のトランクの中に入れる。 「あなたが、異国であなたとして生きたいなら俺は助ける。当分の資金もここで渡そう」  このパスポートを受け取ったら、違う国での自分は、と考えて何も言わない女を急かすように風が彼女の黒髪をさらさらと撫でた。 「婚約破棄をして、僕だけが幸せになるのはいやだ。あなたにも幸せになって欲しい」 「……私が国を出て、迷惑を被ることはないの?」 「俺が?ないよ」  男は肩を竦める。なんてことの無いような反応だ。 「私が、私で居られる?」 「そう。誰も、あなたを知らない世界だ」 「……わかった」  トランクの扉が力強く閉じられた。男から車の鍵と、渡航先での宿泊先の住所を受け取る。 「君はメイジーだ。メイジー・アルジェント。無事に、逃げ切ろう」  今まで一度も交わしたことが無かった抱擁をこの夜初めて交わし、彼女は理解した。この香りを纏う男が自分を愛する筈などないという事。そして、男の言う通り自分は彼を決して好きではなかった。母親にこの男と一緒なら怒られないから、安心していただけなのだ、と。
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