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今日は時代の異なるグレゴリー・ペックの話の続きから聞くことにした。アナは寄宿学校時代の話になると気分が昂るようで、楽し気に話してくれる。
「ある日、私の友達のMargaretマーガレットが懺悔に行ったのよ。グレゴリー・ペックのところにね。あぁ、神父様、私をお許しください。私は好きになってしまいました。愛してしまいました・・・神父様を、って。」
アナは大袈裟に祈るようなポーズを取ってそう言うと、背中を丸めるほど大笑いする。昔を懐かしむというより、昨日の出来事のように楽しそうだ。
毎日バレエを踊れることが嬉しかったようだが、バレエの世界は厳しく、どんなに練習しても、たとえ才能があっても、誰もがバレエダンサーにはなれない。18歳のアナは、自分の将来と現実の隔たりを冷静に客観視していたようだ。
「私の足の甲は平べったいし、股関節が開いていないから、いくら練習してもPrincipalプリンシパルどころかCorypheeコリフェにすらなれない。現実は冷たいわよね。」
眉を上げて、つまらなそうな顔をして、アナは続けた。
18歳で学校を卒業するとバレエも諦めて、ロンドンで就職した。デザイナーの助手の助手だ。親からの仕送りで十分に暮らしていかれる彼女にとって、仕事は人生経験を積むための一つの手段に過ぎない。金のために働くのではない。
「バーバリーのアートディレクターのアシスタントのアシスタントとして働き始めたの。小間使いよ。下っ端の下っ端だけど、現場の雰囲気を感じることはできた。とても刺激的な毎日だったわ。」
撮影現場の準備を手伝ったり、デザイン画を取りに行ったり、文字通りの小間使いだったようだ。しかしファッションの世界はアナにとって新鮮で華やかで居心地がよかったようだ。
「アートディレクターのDickディックはゲイだったの。当時は今のように公表している人なんていなかった。ゲイだと知られたらもうおしまいよ。でもファッションの世界は暗黙の了解で認め合っていたの。ゲイが多かったしね。そんなのどうでもいいことじゃない。いいデザインができればゲイだろうとなんだろうと関係ないもの。」
伝統偏重の中に生まれ育ったアナが、リベラルであることが私には不思議だった。娘の結婚は許容できないが、同性愛には寛容なのだ。
「アシスタントのAvaエイヴァは嫌な女だった。ディックのご機嫌ばかり伺って、面倒な仕事は全部私にやらせて、いいところばっかり取っていくのよ。全部自分の手柄にして。あぁ腹が立つ。」
アナは会社帰りに同僚に八つ当たりするように私に話した。
「でもディックはちゃんと見ていたのよ。私の仕事ぶりもエイヴァのずる賢さもね。それで、しばらくしてから直接重要な仕事を任されたりしたの。嬉しかったけど、エイヴァの妬みは酷かった。・・そうそう、ある時、空港にモデルを迎えに行けっていうから、時間通りに行って待っていたけど、全然来ないの。電話して確認したら、『あら、明日だったわ』だって。その間に私が楽しみにしていたパーティーが終わってしまったの。そうそうたるゲストたちが集まるパーティーだったのに・・・」
悔しそうな顔をして昔に思いを馳せるアナには、パーティー会場が目の前に広がっているようだった。次々と思い出されるエイヴァの嫌がらせを、私は頷いたり、驚いた表情をしたり、アナが飽きるまで聞き続けた。
「アシスタントの仕事は、いろいろと勉強になった。意地悪エイヴァには今でも腹が立つけど、それもひっくるめていい思い出だわ。今となってはね。ディックはエイズで死んでしまった。まだいい薬がなかったから。若かったのに。いい人は早くいなくなってしまう。」
しんみりしたアナの表情は悲しげでもあるが、懐かしそうでもある。彼女にとっていい人も悪い人も、みんな彼女の人生を豊かに彩っている。臨時雇いの端役すら、必要な演者のように見える。
「そろそろ時間ね。」
私はアイラに中断される前に、切りのいいところで帰ることにした。
「もうそんな時間?早いわね。楽しかった。また明日ね。」
私は穏やかな様子のアナを、バーバリーのアシスタントをして働いていた時間に残したまま部屋を出た。
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