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次の日は、私の離婚の話で途中になってしまったリチャードとの結婚生活の続きから話を聞こうとしたが、アナの記憶はもうリチャードにはなかった。私は新たな登場人物に本当は戸惑ったが、何事もないように話を聞き続けた。アナの口調は滑らかで、今現れた情景を言葉の絵の具で上手に描くようだった。
「ケイトが10歳くらいだったかしら、リチャードの友人だった詩人の出版記念パーティーに行ったの。Leopold Alain Lambertレオポルド・アラン・ランベール・・・レオの三冊目の詩集の出版だったと思う。彼とはそこで初めて会った。Laurence Olivierローレンス・オリヴィエって知ってる?『嵐が丘』の。彼に似ていたわ。ハンサムだった。黒い髪と黒い瞳。すらっとして、笑うと可愛かった。レオは・・・」
アナは目の前に立っているレオを言葉で再現するように話し続けた。
「でも・・・どこか影のある人だった。それが余計にハンサムに見せるのかもしれないわね。リチャードとレオは友人関係にあったけど、私はリチャードよりレオと親しくなったの。すぐにね。そのパーティーで。レオは結婚していなかったけど、周りにはいつも女がいっぱいいたわ。女のほうから寄っていくから、何度も女に誘われるレオを見たものよ。」
呆れたような不服そうな表情をして肩を竦める。レオの話は止まることなく続いた。
「レオはフランスからギリシャの小さな島、フォルメンテラ島に移り住んで、詩を書き続けていた。ずっとヨーロッパの第一線の知識人で、文学評論もたくさん出版されてた。賞も取ってたわ。ヨーロッパの・・何だったかしら・・・ヨーロッパ何とか賞よ。ほら・・ダメだわ。思い出せない。」
アナは頭を抱えてしばらく思い出そうとしていたが、最後は天を仰いで首を振った。賞の名前は諦めたが、アナはまだレオの話を続けた。
「家族ぐるみで親しくしていたの。リチャードとケイトと三人でレオの島を訪ねたわ。夏は二か月滞在した。毎年ね。小さい島で、美しい静かなところだった・・・レオは情熱的な芸術家だけれど、理性的な研究者でもあるのよ。彼の知識は底知れない。どこで学んできたんだか。何を聞いても答えてくれる。絵画に音楽、芸術から歴史、政治経済までね。国際情勢にも詳しかった。知の泉。彼自身が知の泉なの。とても楽しかった。リチャードとは生活に関することしか話さなかったけど、レオは現実を忘れさせてくれた。」
レオのことを話すアナは少女のようで、その頬は少し昂揚して桜色になっている。
「いつも綺麗な女を侍らせていたけど、本当に愛していたのかしら。彼が本当に愛した人はいたのかしら。一度も結婚していなかった。」
あれこれと思い悩む十代の片思いのように、アナはレオのことを推察して話した。
「私たちは愛し合った。リチャードに隠れてね。30過ぎて初めて愛するってことを経験したのよ。リチャードは知っていたのかもしれないわ。でも彼も若い女と遊んでいたし、私に注意できなかったんでしょう。」
突然の告白に私は息を呑んだ。あの厳格なアナが不倫をするなんて、想像だにしなかった。あれほどケイトの駆け落ちを非難して、決して許さない人が、結婚を無形文化財のように大切にする人が、自ら結婚生活を壊すようなことをするとは、私にとっては晴天の霹靂だ。言葉を失って呆然としていた私にアナは言った。
「私が愛したのはレオだけよ。レオが愛したのは私だけじゃないだろうけど・・っはは・・私は星屑の一つに過ぎなかったかもしれないわ。」
アナに対して抱いていた像は私の勝手な妄想だったのだろう。アナは私と同じ女性なのだ。私の妄想は一気に崩壊した。
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