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「エマ、愛しなさい。本当に心から愛する人を愛しなさい。」  アナの突然の言葉は心の底に深く沈んで固定され、私はその重みを感じていた。アナの瞳はまた遠くを見つめた。彼女の周りだけ、時が止まったように静寂になる。そして急に思い出したように私に訴えかけた。 「ケイトはデビュタントに着ていくシャーロットのドレスを用意したのかしら。私が準備するんだけど、あの娘は行かせないつもりなのかしら・・」  何年も前に終わってしまったシャーロットのデビュタントが、もうすぐやって来るかのように真剣にアナは心配を始める。 「今日は調子が良さそうね。血色がいいわ、アナ。何か楽しい話をしていたの?」  アイラが部屋に入って来て、アナの点滴の準備を始めた。 「ごめんなさい。時間に気付かなかったわ。」  私は帰り支度をしながら、アイラに謝った。本当は続きが聞きたかった。レオとはなぜ結婚しなかったのか。レオが離婚の原因となったのか。 「シャーロットのドレスの準備をしないといけないのよ。」  アナがアイラにも苦情を申し立てる。 「そうね、私からもケイトに確認するわね。」  慣れた返答で、アイラは苦情を手際よく処理する。私はアイラに目配せして部屋を出た。  驚きが薄まらないままの私は、ホテルに戻ると詩人レオポルド・アラン・ランベールのことを調べ始めた。  レオはアナより2歳年上で今年80歳になる。フランスの地方貴族の末裔として生まれた。父親はフランス人の文学愛好家だったが、イタリア人の母親は冷たく権威主義的な人だったそうだ。虚無的で悲観主義的なレオの作風は、母親に愛されなかった子供時代の影響だと解説されている。  20代からうつ病を発症し、入退院を繰り返していたが、30代後半からギリシャの島に移り住んで、精神的に安定した時期を過ごしたと書かれてあった。 ギリシャの島に移り住んでからの個人的な情報は見つけられなかったが、晩年も詩集で数々の賞を受賞し、文学評論もかなり出版されていることはネットで検索できた。  数枚の画像から、アナがローレンス・オリヴィエと言っていたのがよくわかった。確かに美形で、影のあるハンサムだ。しかしまさかあのアナが恋焦がれるように彼を思っていたなんて、常識は転覆して、私は混乱していた。しかも彼女は結婚していたのだ。  翌日はレオのことが聞きたいと、俗な好奇心を持って私はアナを訪ねた。 「おはようございます。」 「おはよう、エマ。レオのことは話したかしら。私が35くらいの時に出会った人よ。詩人で、ローレンス・オリヴィエに似ているハンサムなの。ギリシャの島に移り住んだから、そこによく遊びに行った。彼の詩は・・・」  アナ・ローズはまた同じ話を始めた。昨日と同じ嬉しそうな顔をして、新鮮に私に同じ話を聞かせてくれる。美しい話は話される度に新しく磨きをかけられて、輝きを増していく。忘れ去られていく記憶は増えていくが、残された記憶は宝石のように美しく輝き続けた。  レオとの時間はアナの手のひらで今でも瑞々(みずみず)しく語り掛けてくる。船を沖に泊めて夕陽を眺めたこと。一言も交わさなくてもレオの傍でアナが幸せだったこと。誰もいない入り江でレオと二人で裸で泳いだこと。数え切れない思い出が、宝石箱のダイヤモンド、エメラルド、ルビーのように彼女の頭の中で色鮮やかに光を放っている。  美しい思い出に心を奪われながら、それが夫あるアナの行動であることに、私は一方で納得がいかなかった。 「私はイギリスに戻っても、それまでと同じ結婚生活を続けたのよ。結婚を壊すつもりは毛頭なかったわ。女は役者よね。私は良妻を上手に演じていた。私はそのつもりだったけど、リチャードは気に食わなかったのね。私とレオの関係に気付いていたから。あの人は役者にはなれなかった。口論が絶えなくなって、私、家を出てレオの島に行ったの。一人でね。」  ケイトと同じことをしているではないか。あの日の自分に警告するようにケイトの駆け落ちを認めないのか。アナの行動に私は心の中で眉をひそめた。あんなにケイトを責めて、今でも許していないのに、自分も同じことをしていたとは。
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