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帰りのバスの中から見えた古そうなパブが気になって、私はホテルに帰る途中でバスを降りた。観光客で明るいうちから賑わっている。十字路の一角に建つパブは、深緑色の外壁にThe Checkerberryチェッカーベリーという名の看板が掲げられている。パブの名前のとおり、小さな赤い実をたわわにつけたチェッカーベリーの植木鉢がたくさん下がっている。深緑の壁と赤い実の色の対比が、歴史のありそうなパブの雰囲気を可愛らしく演出している。
中に入って、カウンターでLondon Prideロンドンプライドのビールを1パイント頼んだ。客はみな外で飲んでいるから店内は人がいない。店の端っこの席で閑散とした店全体を見渡しながら、久しぶりに生温いビールを飲む。のど越しではなく、味を楽しむビールは冷えていなくても美味しい。
携帯の通知音に気付いて見ると、後輩のRからの着信履歴があった。彼女は困った時にだけ掛けてくる。うまくいっている時は音信不通だ。だから私は調子の悪いRしか知らない。
彼女は41歳だが今まで男と付き合ったことがない。一人で生きるのは嫌だそうで、ずっと生涯の伴侶を探している。支えてくれる人が欲しいが、相手が病気になったりしたら、面倒はみたくないから健康な人がいいと言う。
機械のような彼女は、精密なリストを持っている。年収一千万円以上、両親とは別居、35歳から45歳、健康、身長175㎝以上、清潔感があって、飲酒喫煙せず、向上心があって、聞き上手・・・。流行りのアプリケーションを駆使して、デートを重ねるが、彼女の作ったリストに合致する人はなかなかいない。
彼女はリストのチェックを通過した人しか好きにならない。好きになるって何だろう。心の作用なのではないのか。動物的な、自然のなせる人間的な感情なのではないのか。私には訳が分からなくなる。
彼女は心ではなくリストで恋をする。結婚はそうやって頭でしたほうがいいのだろうか。愛だのと古臭いことを言っている私は、現代に生きる原始人なのかもしれない。
ビール1パイントでは酔いはしないが、考えすぎる頭が酔いを妨げている。Rの結婚とアナの結婚、原始人の私には未来人の活動のように見える。未来であろうと、人はそんな風に他人と暮らせるのだろうか。
しかし原始人の女性も、現代でいうところの経済力がある狩猟能力の高い男を選んだのだろうか。そうすることで、人類は優秀なDNAを残して繁栄してきたのだろうか。きっと私のような女ばかりでは、人類は滅びていたのかもしれない。愛などなくても生きて行かなくてはならないのだ。
英嗣の顔が浮かんだ。イギリスに来てから2週間近くなるが、まだ一度しか電話していない。時差もあるが、忙しいと言いつつ、私は自分に言い訳をし続けている。居心地の悪い自分を捨て去るように、私は勢いよく席を立ってパブを出た。ホテルまではバス停ふたつくらいあったが、私はそのまま歩き続けた。もうすぐ寒い冬が来る。冷え始めた空気が、イギリスの短い夏を終わらせる。恐ろしく寒い冬が来る。
「エマが来てから、アナの調子が良くて嬉しいわ。」
「そうなの?」
「ええ、血圧も安定しているし、食欲も出てきたし、何より表情が豊かになったもの。」
「そう、良かった。」
私はアイラに微笑みながら、それが私ではなくレオの影響であると確信していた。私がいつもの椅子に座ると、アイラは部屋を出て行った。
「アナ、今日はリチャードと離婚してからのことを話してくれる?」
アナはこちらの思惑通りに話を進めてはくれないが、私はできるだけ話のレールを先に敷いて誘導するように努めていた。
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