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 玄関の鍵を開け、いつもの場所に鍵を置く。鍵の音が、暗く音のない部屋に響く。靴を脱ぐのにふらつく。ビールとワインくらいで酔ったのか。随分弱くなった。年を取ったということだろうか。  女友達のHと久しぶりに飲みに行った。Hは新卒で就職した会社にまだ勤めている。30年も同じところに通い続けるって尊敬する。7200回、同じ電車に乗って、同じオフィスに行って、同じ人たちに会い、7200回、同じ電車に乗って家に帰ってきたのだ。私にはできない。  鞄をソファに投げて、そのまま風呂場に直行する。着地に失敗して逆さになった鞄から、中身がなだれ落ちてくる。拾い上げてくれる人はいない。そのままにしてシャワーを浴びる。  Hは結婚が遅くて42で子供ができた。10歳になったそうだ。最近、新宿御苑の近くに新築マンションを買ったらしい。夫と子供がいて、東京のど真ん中に新築マンションを持っている。  シャワーを頭から浴びて、シャンプーで頭の地肌を強く擦る。長い髪をすすぎながら、大声を出してみる。 「わぁああああ!!!」  シャワーの音も負けて、私の叫びが狭い風呂場に響き渡る。そんなことですっきりはしない。嫉妬?幸せと呼ばれるものを確実にすべて手にしているHが羨ましいのか。堅実に生きられない自分が悔しいのか。私には何もない。私の人生には何もない。 「英嗣?私、ひと月イギリス出張になった。」 「えっ?!イギリス?いいね!ロンドン?」 「うん、自叙伝のゴーストライター。」 「ゴーストライター?!」 「冗談。取材して、私の言葉で書くの。」  髪を乾かしながら英嗣に電話した。彼とは付き合い始めてもうすぐ一年になる。愛してはいない。四十九でバツイチの男は、私を愛していると言う。四十八でバツイチの私は、どこかで老い先を見据えて付き合っている。独居老人となった自分が孤独死する光景は、日に日に現実味を帯びてくる。閉め切った狭い部屋の老人臭がする。  英嗣は外資系金融企業で投資アナリストをしている。結婚したら、経済的な心配はないだろう。私の一部は将来の生活のために彼と付き合っている。愛していなくても、一人で死に絶えるよりはいいのだろうか。頭の隅に沈潜するわだかまりを、まだ真正面から見ないようにしている。私は自分の心を偽って、英嗣の好意にすがっている。自分が胸糞悪い。  風呂上がりにまたビールを飲む。酔っ払って思考をぼんやりさせるほうが、抗うつ剤を飲むより健康的だ。そして仕事のことを考えて自分の人生には蓋をする。長年続けてきた健全なやり方だ。  どうしてアナは私を指名してきたのだろう。二十年も前のインタビューをまだ覚えていたのだろうか。たった一年の仕事の付き合いだったのに。私はもうすっかり忘れていた。  イギリスに出発するまでの数週間、私はアナ・ローズの情報をかき集めて予習をすることにした。過去のインタビュー記録も探しまくった。私は断捨離の達人だから、二十年前の録音やメモ書きを見つけるのは至難の業だ。  しかし、あの時のインタビューはちょうど自分の人生の岐路とも重なり、他の仕事よりも思い入れが強かった。資料など当時の記録は捨てずにどこかにあったはずだ。
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