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 私はスケッチブックを見せてもらうことにした。アナはどんなドレスをデザインしていたのだろう。隙間なく詰められた画帳をこじ開けるように引き出して開いてみた。人の顔だ。ドレスのデザインではなかった。どのページも人の顔だ。私は隣の画帳を、今度は楽に引き出して開いてみる。これも人の顔しかない。次の画帳には海や港、自然の風景と人が描かれている。  レオポルド・アラン・ランベールだ。ここに描かれている人物はみんなレオだ。気付いた私は次々と他の画帳を広げてみた。そこには笑うレオ、真剣なレオ、眠っているレオ、様々な表情のレオに、いろんな場所にいるレオが、木炭、鉛筆、ペン、多様な画材で描かれている。たくさんのレオが本棚から溢れ出した。 「言えばよかったのよ!一緒にいたいって!!あの時、行けばよかった!!」  アナの叫びがノートを開く度に聞こえてくるようだった。心から絞り出されるような声は、いつまでも耳の奥に残っていた。レオの顔は優しい筆使いでも激しい筆使いでも描かれている。アナのレオに対する思いが揺れ動いているように。  ドレスのデザイン画もきっと何処かにあるのだろうが、溢れ出したレオに溺れて、ドレスを探し出すことができなかった。呆気に取られた私は、静止した大量のレオをただ見ていた。彼の顔は今にも声を出して笑い出しそうだし、眠っているレオは寝息が聞こえそうだ。アナは島にいる間、ずっと彼を見ていたのだろう。  私はホテルに戻って、またレオポルド・アラン・ランベールを検索してみた。彼の作品についての情報はたくさん出てくるが、私生活についてはほとんどなく、うつ病を患っていたことくらいしかわからなかった。そして結婚歴もないようだった。  私はレオの存在の裏を取って、客観的にアナの自叙伝の骨組みを構成したかったが、アナの言葉だけで十分だと思い始めた。アナの人生に登場した、アナの目で見たレオが書ければいいのだと、書くべきなのだと思った。  翌朝、アイラから電話がきた。アナの調子が良くないので今日は取材を中止にしてほしいと。仕方なく私はまた連絡をくれるように頼んで電話を切った。アナが心配だが、そんなにひどい健康状態ということではなく、休息が必要だということだった。  たった2時間でも毎日昔のことを思い出して話すのは、アナの体に負担をかけていたのかもしれない。私も少し休みを取って、英気を養うことにした。ちょうど金曜だったので、Bermondsey Squareバーモンジー・スクエアの骨董市を覗いてみる。  広場にはテントの下に露店が広がっている。隙間なく窮屈そうに雑貨が並べられている。食器、グラス、銀食器、小物入れ、香水入れ、アクセサリーも古本もある。一つ一つに歴史がある。百年以上前の物がざらにあるのだ。  イアリングや指輪、ネックレスが、綺麗なレースの敷物の上に並べられている。細かい細工をひとつひとつ目でなぞっていく。私はぎょっとした。指輪にデザインされた瞳と目が合ったのだ。私の様子に気付いたのか、店の女主人が声を掛けてきた。 「見たことない?Lover’s eyeラバーズアイよ。」 「ラバーズアイ?」  ラバーズアイは、象牙に片目を描き、指輪やブローチ、ネックレスのロケットなどに仕立てたアクセサリーのことだそうだ。18世紀後期から数十年間のみ作られていたそうで、出回っている数が圧倒的に少なく貴重なアンティークだと店主が黒いストールを肩にかけ直しながら教えてくれた。 「なぜ目を描くの?」  私は奇妙なアクセサリーの起源が知りたくなった。 「ラバーズアイを贈る人と贈られた人だけが、その瞳の持ち主を知っているのよ。」  確かに、片目だけでは誰かを確実に特定するのは難しいかもしれないと思った。 「ジョージ4世が21歳の皇太子だった時に、カトリック教徒のマリア・フリッツハーバードを愛してしまったの。彼女は6歳年上の未亡人でカトリック教徒でしょ。宗教の違う人とは結婚できないから、別れなくてはならなくて、自分の瞳を描いたラバーズアイをマリアに贈ったのよ。『離れていても、ずっとあなたをみつめています』っていう気持ちを込めてね。」  女主人は皺だらけの顔を一層皺くちゃにしてにっこりと微笑んだ。彼女の少女の笑顔に釣られて、私も笑顔になる。二人で200年前の恋物語に思いを馳せる。  隣の店の手のひらに乗りそうに小さい化粧箱が目を引いた。立ち止まって興味を示す私に、店の主人が説明してくれた。これは1800年代のもので、象嵌細工で珊瑚を埋め込んであるそうだ。花や蔓のデザインが施されている。店主が開けてごらんと言うので、私は壊さないようにそっと蓋を開けてみた。蝶番は新しい物に取り換えられているのだろうか、滑らかに開けることができた。  蓋の裏側は鏡になっている。中にはきっちり計算された寸法の小さい硝子の香水瓶に化粧瓶、ハサミなどが10個ほど隙間なく入っている。小さいのに細工がすべてに丁寧に施されていて一つ一つが美しい造作だ。  旅行の時に携帯したのだろうか。どんな女性が使っていたのだろう。200年前に思いを馳せる。200年の時間、この化粧箱は何を見てきただろう。女性の笑顔だろうか、涙だろうか。時の流れは優しかっただろうか、残酷だっただろうか。  終わった時を見直しても、もう修正することはできない。起こったこと、言ったこと、やったことは変わらない。元夫との15年を振り返っても何も始まらない。あの時に戻れたら、今の私はこの私ではなかったのだろうか。私は露店を巡り、アナの時間と自分の時間や友人の時間を考えていた。  私の女友達のSは長年愛人をしている。もう20年近くなると思う。事実婚というのだろうか。彼の妻は決して彼と離婚することはないから、Sは結婚はできない。それが若い愛人への妻の報復でもある。若い愛人といっても、私の友人ももう50を過ぎている。Sの20年をSはどう見ているだろう。アナの激しい後悔を思い出す。
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