24

1/1
前へ
/25ページ
次へ

24

 次の日はオフにしていたし、取材の先も見えてきたので、私は安堵していた。何より、アナの体力がここまで持ったことに感謝した。もう一息、これまでの話を補完するように話を聞き出せれば、日本に戻っても大丈夫だ。  帰国する日が近くなって、私は予定通りに帰ると英嗣にテキストした。電話は掛けなかった。時差があるから。  昼過ぎから気分転換に散歩に出掛けた。肌寒いくらいのロンドンは、歩くのに丁度よい。博物館でも行ってみようと地下鉄に乗って、St. Paul’sセントポール駅で降りる。北に歩いていくと、すぐにロンドン博物館がある。ロンドンの歴史が体験できる。アナの時代を書くのにいい材料が見つかるかもしれない。  懐かしいロンドンの道を、ぼんやりと不明瞭な頭で足を運ぶ。私は何か足りないような気がずっとしていた。何かし忘れているような、根拠のない不確かな物足りなさを持って歩いていた。  ロンドン博物館に近くなると、昔、郵便局だったという建物が出てくる。その建物の前に、ローランド・ヒルという人の銅像がある。近代郵便制度の父と呼ばれる人だ。今でも彼はそこに立っていた。  私は学生の頃に聞いたローランド・ヒルの逸話を思い出していた。嘘か本当か真偽は定かでないが、素敵な話だった。  彼はある日、郵便配達人の手紙の受け取りを拒否している若い女性に遭遇した。当時、受取人が負担しなければならない郵便料金は非常に高くて、その女性はお金が払えなかったそうだ。  ローランドが見かねて代金を代わりに払ってやり、手紙を渡すと、女性は困った様子で事情を打ち明けた。その手紙はロンドンに住んでいる恋人からのもので、封筒の中身は空っぽだけれど、表の宛先に記された暗号で彼の愛情を確認できたから、手紙を受け取る必要がないのだと言う。それを聞いたローランドは驚いて、誰もが利用できる郵便制度の構築に尽力したという話だ。  そうだ!子供が楽しいことを思い付いた時のように、私は嬉しくなった。そして博物館には行かずに、急いでホテルに戻った。もう時間がない。    ホテルに戻ると、私は大急ぎでこれまで取材した記録の中から、レオに関するところをできる限りアナの言葉でまとめて、一枚のラブレターを書き起こした。  そして、レオの代理人となっている出版社に送った。80歳の高齢になっているレオが読んでくれるかわからない。彼がアナを覚えているかさえわからない。それでも私は送りたかった。アナに怒られるかもしれない。それでもいい。いずれ出版される内容なのだから、秘密にする必要もない。レオの目に触れる時期が、少し早まるだけだ。  手紙を送ってから、レオの出版社に電話をしてみた。運よく担当の編集者に繋がり、私は事情を説明することができた。 「・・わかりました。届いたら、私から渡しておきますよ。でも返事は期待しないでくださいね。」  優しい感じの低い声の編集者は、さらに低い声で教えてくれた。 「レオはもう一年近く闘病しているんです。癌を患っていて、今はもう寝たきりなんですよ。それでも創作活動は続けています。頭は非常にしっかりしていますから。」  レオは今どんな詩を書いているのだろう。現れる女性はどんな女性だろう。80歳のレオの詩を読んでみたい。 「きっとアナのことを覚えていると思いますが、返事を書くかどうかはわかりません。」 「返事を頂けなくても、読んでくだされば・・・」  私はアナの思いがレオの生きているうちに伝わってくれればいいと思った。 「私がレオの言葉を代筆しているんです。手がうまく動かないものですから。」 「そうですか・・わかりました。無理を言ってすみません。よろしくお願いします。」  レオの命も消えかけている。二人の命が同じ時に消えようとしている。消える前に最後に二人が繋がれないだろうか。ただ伝わればいいと思ったし、期待をするなと言われたが、私の望みは自然と徐々に強く大きくなっていった。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加