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アイラはにっこりと微笑むと、ゆっくりとアナのいる部屋のドアを開けてくれた。充満していた病室の薬の匂いが、開かれたドアから溢れ出す。
そこは二十年前にインタビューをしたオフグリーンの壁の客間だった。天井も壁の色も昔のままだったが、猫足のソファも調度品ももうなかった。大きな電動ベッドが、広い客間の中央に置かれている。病室の上から貴族の部屋の天井と壁を被せたようだ。
「ちょっと窓を開けますね。」
アイラが開けた窓から、匂いのない風が入口のドアを通り抜けて、部屋の空気を一掃してくれる。ベッドの中央に埋もれるように横たわるアナが見える。こんなに小さな人だっただろうか。
「アナ、お待ちかねのエマが来てくれたわよ。」
アイラははっきりとした声でアナに声を掛けると、私に向かって、
「じゃあ、何かあったら呼んでくださいね。隣の部屋にいますから。」
と言って部屋の入り口のドアを閉めて出て行く。
「はい、ありがとうございます。」
私はアイラに礼を言うと、アナのベッドのほうに向き直った。
「・・アナ・・」
「エマ?」
アナは電動ベッドのリモコンを使って、上手に上半身を起こした。
「お久しぶりです。」
「久しぶりね。」
「覚えていてくださってありがとうございます。」
アナの髪は真っ白になり、皺の中に見える小さな瞳は濁っているようだ。私が見えているだろうか。白いリネンに刺繍をふんだんに施したネグリジェの袖口から、細い腕が枯れ枝のように見える。
「遠いところありがとう。私ももう長くはないから、これまでのことを残しておきたくなってね。」
アナが自分で「もう長くない」などと言うのが悲しかった。
「そんなこと仰らないでください。」
「あら、本当のことよ。もうこんなおばあさんなんだから。」
アナらしい率直な返事に私は懐かしさを感じて、自分のことも話したくなった。
「私もうすぐ五十なんですよ。」
「五十なんてまだ子供ね。」
私は思わず微笑んだ。アナがここにいる。嬉しかった。
「今日はご挨拶だけで、明日から本格的に取材させてもらいますね。」
「エマ・・・私、アルツハイマー病なのよ。そのうち、あなたのこともわからなくなる。自分のことすらね・・・はははは・・・その前に残しておきたいことがあるの。まだ記憶が残っているうちに。」
私はただ頷いた。自虐的に言っているのか、私はあのアナ・ローズが消えてなくなってしまいそうで不安になった。
「だから、出来るだけ早く終わらせないといけないの。それに私は頭に爆弾を抱えているらしいのよ。いつ爆発するかわからない爆弾だから厄介なのよ。時限爆弾ならタイマーを設定できるんだけどね。」
アナは自分の病気のこともわかっている。私には彼女が痴呆には見えなかった。昔のようにしっかりしている。
「わかりました。明日また伺います。」
「だめよ。今すぐに始めてちょうだい。」
挨拶をするだけの予定だったので、約束していた面会時間30分にもうすぐなろうとしていた。
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