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「絵真、仕事よ。」 「私?勘弁してよ。もう手がいっぱいよ。誰かに代わってもらって。」  私は苛ついていた。仕事は山積みで終わりは見えず、人生はすっからかんのくせに終わりが見えなかった。何が楽しくて生きているんだか、なんでみんな馬鹿みたいに生きているのかわからない。今すぐ死んでもよかった。何の未練もない。更年期障害か?48ならあり得る話だ。この頃、あれほどきっちりきていた生理も、周期が不安定になっている。女も終わるのか。何か思いっきり蹴飛ばしてやりたい。 「他の仕事は何とかするから、こっちを優先してよ。アナ・ローズのご指名なのよ。」 「・・・アナ・ローズ?」  かなり昔、駆け出しのライターだった私は、アナ・ローズのインタビュー記事を書いたことがあった。確か、私が結婚したばかりの頃だったから、二十年前か。恐ろしく長く生きた気がする。 「ひと月まるまる彼女の家で取材して、自叙伝を書いて欲しいっていうのよ。」 「えっ?ひと月も?!」 「私だって調整が大変で困ってるんだから。」 「イギリスに行くの?!」 「あのアナ・ローズよ。チャンスじゃない。」 「チャンスって・・」  編集長であり、私の親友でもある麻子の采配はいつも正しい。信頼している。Camille Malbertカミーユマルベールは、1937年にフランスで発刊されたファッション女性誌だ。彼女は日本版の編集長を任されてもう長い。 「久しぶりにオフィスに来たら、飛んだ展開だわ。」 「こっちは何とかするから、行ってきなさいよ。」 「自叙伝を連載にするの?」 「彼女は最終的には本にしたいらしいけど、うちに持ち込まれたから、とりあえず連載にして、出版はその後らしい。」 「私はゴーストライターは無理よ。」 「わかってますって。その点はちゃんと確認しているから大丈夫よ。あなたの言葉で書いて。」 「ふーん・・それなら・・」 「先方は絵真に書いて欲しいって言っているから。」  麻子に仕事をもらって、私は生活している。会社には最小限の人数しかいないから、いつも忙しい。でも私はこの会社が嫌いじゃない。書く仕事が好きだから。締め切りに追われるのも好きなのかもしれない。妙な性だ。 「チケットはどうする?自分で取る?」 「私に選択権はないみたいね。」 「アナ・ローズのご指名よ。有難く受けることね。」 「ラジャー」    アナ・ローズが私のことを覚えていたのか。突然の仕事に当惑したが、私は麻子に敬礼して、ラップトップ片手にオフィスを出た。  自叙伝といっても、アナ・ローズはヨーロッパファッション業界の生き字引だし、業界の裏話や暴露話が飛び出したら、面白い本になるだろう。それに彼女は女性としても人としても、とても魅力のある人だ。  ひと月、他の仕事から離れられるのは、よくよく考えるといい気晴らしになる。それに久しぶりのイギリスに浮き立つ気分がないわけでもない。  イギリスの大学を卒業し、私はそのまま雑誌La Belle Vieベルヴィの出版社に就職して、取材しては記事を書き、日本向けに翻訳もしていた。ジャーナリストを目指していたと言えば体がいいが、とにかく書く仕事であれば何でもよかった。  書いた記事もかなりの頻度で採用されるようになり、自信もつき始めていたが、夫の帰国に伴って日本に帰ってきた。夫、いや元夫とはロンドンで出会った。彼は日本企業の駐在員だった。  当時の私はそれが唯一正しい選択だと心底信じていた。イギリスで一人で生きる未来など想像できなかった。だからあっさりとイギリスでのキャリアを捨てて、日本に戻りライターの仕事を続けた。  今になって、あの時にロンドンでキャリアを積んでいたら・・・とヨーロッパで活躍する自分を、極東の日本で窮屈に想像する時もある。
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