夏の始まり

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夏の始まり

「あー、今日も疲れた!」  昼ご飯を終えた今井が自販機の前で伸びをすると、中庭のそこへ一緒に来た渡辺がベンチに座ってパックのジュースにストローを差した。七月の日差しが強く、花壇で咲くひまわりもなんだかつらそうだ。蒸し暑いもわっとした空気が息苦しさを増している。 「補講期間って勉強の気分にならないよね。朝から一日部活になればいいのに」 「ホントそのとおり。もっと文化祭の練習したいなあ」  ジーワジーワと蝉の声が降りしきる中庭には誰もいなかった。だが、教室のクーラーで冷え切ってしまった体を溶かすにはちょうどいい。中庭にジュースを買いに行くと言ったら、同じだったのか腕をさすった渡辺が「私も」とついて来た。ベンチは自販機の上にある屋根の陰にあって、深緑の中に白いセーラー服が浮き上がる。 「今井ちゃんも朔もすごいね。次に向けて頑張ろうって切り替えられるなんて。おかげで私も予選落ちしたことはすぐにふっきれたよ」 「朔ちゃんが来年に向けて二年生全員で考えようって言い出したときはびっくりした。あたしたち皆と一緒に行きたいんだよ。嬉しくなっちゃった」  今井の言葉に渡辺が笑った。 「朔って一年生のときと随分変わったよね。一人でコツコツとやることが好きそうだったから、私、どこか遠慮しちゃってた。人見知りなのかなって思ってたから」 「そうかも。人に慣れるのに時間がかかるタイプなんだよね」  今井はそう言って笑顔で昔を思い返した。まだ小学校に上がる前、朔也と初めて書道教室で会ったときのことを覚えている。同い年なんだよという先生の言葉に「そうなんだ」とぱっと笑顔になって、いつから来ているのかだとかあれやこれやと話しかけてきた。そのときはやんちゃで元気な男の子だったという印象だ。  ベンチに座ったが、渡辺のスマホが振動して「あ」と慌てたように立ち上がった。 「ごめん、今井ちゃん先に戻る! 提出物を職員室に持っていくの忘れてた!」 「分かった。また書道室で!」  ジュースを持ったままぱたぱたと渡辺が校舎へ戻っていき、今井は一人ベンチに残ったまま園芸部の植えた花壇などを眺めた。この中庭が生徒で賑わうのは過ごしやすい春と秋。それでも鉄筋コンクリートの校舎に囲まれた土の部分は息がしやすい気がする。 「委員長、なにしてんの。暑くね?」  ふとそんな声がして今井はジュース片手に顔をあげた。マスク姿の山宮基一(もとい)がやって来て、上履きがコンクリートの床を蹴っている。 「山宮君はどうしたの。飲み物?」 「ん。午前中の授業が暑すぎて、ペットボトルを一本飲み干したわ」 「男子って不思議。あの教室、女子には寒いくらいだよ?」 「確かに半袖にカーディガンを着てる女子がいたわ」  山宮の手で銀色の百円玉が自販機に入り、ピッという音とともにガコンとペットボトルが落ちてきた。なんの変哲もない水だ。だが、山宮は喉が渇いていたらしく、その場でマスクをずらしてごくごくと飲んだ。だが、その顔がちょっと嬉しそうに微笑んでいる。 「山宮君、今日、なにかあるの? なんかいつもと違うね?」  なんとなくの雰囲気で言ったのだが、当たったらしく山宮が照れた顔つきになった。 「今日、大会の全国予選の結果が出るんだわ。もうすぐ連絡が来るから、すげえそわそわしてる」 「大会?」  思わず鸚鵡返しに言うと、山宮は「そう」とまた一口水を飲んで少し笑った。 「去年は初戦敗退だったから、なんにもなかったんだけど。でも、今年違う部門……違うコースにチャレンジしたから、どうなるかなって」 「山宮君の大会はこの時期なんだ? 慌ただしいね」 「初戦は六月だぜ。ほら、去年委員長が予選に通過したって喜んでただろ。あの時期。俺の大会って地元の予選から何度もやってふるいにかけられるんだわ」  それを聞いて今井は驚いた。地元の予選ということは、その上で全国があるということだ。思わずベンチから身を乗り出す。 「地元の予選を通過して全国大会に進んだってこと? それってすごいんじゃないの?」  すると山宮が照れくさそうにさらさらの黒髪を掻いた。 「初めて県代表になれた……すごい偶然で俺も信じらんねえ」  それを聞いて今井はぽかんとした。山宮が放送部で下校放送等の活動をしていることは知っている。だが、全国レベルの大会があるような部活だということは知らなかった。去年付き合っていた時期にはなにも言っていなかったのだ。 「県代表なんて……すごいんじゃないの? なんで校舎に懸垂幕がかからないんだろう。いろんな部活が大会で成績を残すと、学校外に見える場所に幕がかかるじゃない」  すると山宮が慌てたように首を振る。 「俺がやめてくれって頼んだ。県代表になれても、全国の予選の準々決勝、準決勝、決勝ってまだまだ続くんだよ。垂れ幕ができる頃には準々決勝で落ちてるかもしんねえし。全国で争ってる委員長たちに比べたら大したことじゃねえわ」  山宮は書道部に比べたら俺なんて全然などと続けたが、書道でいろんなコンクールに出品していた今井にとって、どんな大会でも上位に入ることは本人にとって嬉しいことなのだと分かる。思わず笑顔になって声をあげていた。 「すごいじゃない! なんで言わないの? 県代表なんて、皆すっごく驚くと思うよ!」 「恥ずいわ。委員長ならと思って言っちまっただけ。内緒にしといて」  じゃあと小さく笑った山宮は軽く手をあげて校舎へと戻っていく。今井ははっとして自分の手の中でぬるくなったジュースのことを思い出し、ずずっとストローで吸った。全国予選。今井はそれを想像しようと思ったが、山宮の大会がどんなものなのか全く知らない。まさか下校放送をするわけではあるまいし、なにか喋るんだろうなということくらいしか分からない。  朔ちゃんなら知ってるのかな。  中庭を見つめながらそう思った。ここは一年生のとき、山宮が何度も朔也と話していた場所だ。五月考査で罰ゲームねなんて軽い気持ちで言ったとき、自分が具体的にどんなことを思っていたかは忘れてしまった。山宮がため息をつきながら「じゃあ言ってくるわ」と淡々と言って、朔也を呼び止めて本当に告白をしたのには衝撃を受けた。幼馴染みという座を手放したくなくて、告白する勇気が持てない自分とは違ったのだ。山宮は大人しい男子だと思っていたから、まさか本当に行動に移すとは思っていなかった。  あたしが先に言っていたら、なにか違ったのかな?  考えても仕方のないことを考えて、まだうじうじとしている。今井は目を瞑った。日陰でも庭の枝葉に反射した光が目蓋の裏できらきらする。自分が告白したら朔也はきっと困った顔をしただろう。朔也は自分に対してはあまり繕うことをしないので、笑顔で誤魔化すようなことはしない。きっと困って言葉が出てこなくなって、おれはどうしたらいいんだと表情すら固まってしまう。実際バスの中でぽつりと好意を漏らしたとき、朔也の横顔はひたすら焦りを滲ませているだけだった。そう考えると、今のように普通に笑いかけてもらえる幼馴染みの位置が誰にもとられない特別な場所なのだと思ってしまう。  そこへスマホがブブッと音を立てた。 (後略)
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