運命

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運命

 昔から、心が揺れる感じが苦手だった。  他人に惑わされて、騙されて、怒ったり悲しんだり。くだらないと思っていた。  人付き合いも同様。  他人に勝手なイメージを持たれて自分を評価されることも、勝手に期待して裏切られただの言われることも嫌い。  だからいつも、一歩引いて周囲の出来事を傍観していた。そうすれば心が乱されることはまずないから。  だけど、それがまさかあんなことになるだなんて、当時の僕は、ぜんぜん思ってもみなかったんだ。  ***  寒々しい体育館。壇上には、国旗と花と、卒業式の文字。  周りを見れば、みんなすんすん泣いている。僕は、そんな彼らを冷ややかに見つめ、さっさとこの式典が終わらないかなと欠伸をした。 「――卒業おめでとう」  式が終わり、教室に戻ると、担任の岩戸先生から卒業証書と記念品が配られた。その後、お祝いのメッセージをひとりひとりに告げた岩戸先生は、廊下側の一番後ろの席を見つめた。 「そして、最後に」  岩戸先生は一度目を伏せ、もう一度生徒一人ひとりを見つめた。  「残念ながらこの三年四組は、クラス全員で卒業するという四月の目標は叶えられませんでした。ただ、みんなの人生はまだまだこれからです。人生を最後まで生きられなかった鷹嶺のぶんも、精一杯生きてほしいと思います」 「はい」  しっかりと返事をするクラスメイトたちに、僕は恐ろしさすら感じた。  岩戸も、ここにいる三十九人も。だれひとり分かっていない。  なにが彼女のぶんも生きるだ。鷹嶺の親御さんが聞いたら、呆れて言葉も出ないだろう。  だって、彼女を殺したのはほかでもない僕たちなのだから。  ***  鷹嶺茉莉は、腰まである艶やかな長い髪と、澄んだ瞳が印象的な女子生徒だった。人に興味がない僕ですら、初めて彼女を見たときは素直にきれいだと思ったほどである。  だが、彼女の美しさは同性には好まれなかったらしく、彼女は次第にクラスで目立っていたグループから露骨な無視をされるようになった。それから、陰口が囁かれるようになり、そして、上履きや体育着が隠されるようになった。  他のクラスメイトたちは自分が新たな標的になることを怖がって見て見ぬふり。先生も、学校問題となることを恐れて見て見ぬふりをした。  その結果、夏休み明けの九月一日。星祭の夜に彼女は自殺した。  遺書などはなく、いじめの決定的な証拠もなかったことから、いじめっ子も学校もお咎めなしのまま、彼女のいない日常が新たに始まった。  いつしか彼女のいない日常が当たり前になって、僕たちはなにも変わらぬまま、卒業式の日を迎えた。  式が終わり解散になると、僕は家に帰る前に近くの神社に立ち寄った。  朱色の鳥居をくぐり、椛並木を抜けて、本堂を過ぎると神社の後ろ側に出る。この神社は、幼い頃から日課にしている散歩コースだ。  この辺りは薄暗く、人気はあまりない。なにがきっかけでこの散歩コースになったのかはまったく覚えていないが、幼い頃から人付き合いが苦手だった僕には、ちょうど良い暗さだったのだと思う。  竹林を歩きながら、周囲を見回す。神社の裏側の竹林には、白猫が住み着いているのだ。 「モモ〜! ご飯持ってきたよ〜」  わざと音を立ててビニール袋を漁ると、どこからか白い毛むくじゃらがにゅっと現れた。  モモだ。真っ白な毛並みと、桃色の鼻と肉球が可愛い猫。この子とは、初夏に出会った。  モモは僕の腕に絡みつき、エサを催促しながらごろごろと喉を鳴らしている。 「みゃあ〜ん」 「分かったから待てって。今やるから」 「みゃ」  猫缶を開けた瞬間、モモは口の周りをツナだらけにして食べ始めた。 「がっつき過ぎだって……もう。だれも取らないから、ゆっくり食べろよ」  動物は好きだ。人間のようにものを言わないから。  さわさわと風が通り過ぎていく音がする。この音を聞くと思い出す。  そういえば、鷹嶺茉莉とは一度だけ話したことがあった。  それは、夏休みも半ばを過ぎた頃のことだったか。この神社でモモを最初に見つけたのは、彼女だった。  *** 「こんなところで、なにしてるの?」  竹林の中でうずくまっていた彼女に、僕はそう訊ねた。彼女がクラスメイトの鷹嶺茉莉だと思わなかったのだ。振り向いた彼女に驚いた僕は、目を泳がせた。一瞬、声をかけたことを後悔した。 「仔猫が……」  彼女は、小さな声で言った。 「仔猫?」  覗くと、彼女の前にはダンボール。その中に、生まれたばかりの仔猫がいた。 「捨てられちゃったみたい」  彼女はそう言って、仔猫を抱き上げた。  「……可愛い」  このとき、彼女が見つけた捨て猫。それがモモだった。 「……あれ。あなたって……来栖くん?」 「……うん」  僕に気付いた鷹嶺は、ハッとしたように一歩後退った。その動きに、ほんの少しショックを覚えていると、鷹嶺は言った。 「……ごめんなさい。話しかけちゃって」 「え? なんで鷹嶺が謝るの?」  僕が首を傾げると、鷹嶺は困惑気味に目を泳がせた。 「だって私、きらわれてるし」  彼女は、僕に怯えているわけではなかった。僕を巻き込むことに怯えていたのだ。 「……べつに、クラスのごたごたとか、僕はぜんぜん気にしないから」  そう告げると、鷹嶺は一度驚いたような顔をしたあと、ふっと笑った。  けれど本当は、あの言葉は嘘だった。僕はだれよりクラスのごたごたに巻き込まれるのがいやだから、ひとりでいたのだ。彼女を取り巻く環境の悪さを知っていたのに、変えようともせず放置して、結局彼女を死なせてしまった。  彼女が死んだ日、ここに来てみるとふくふくとしたモモがいた。ずっと彼女がひとりで世話をしていたのだろう。  彼女の訃報にも、涙は出なかった。けれど、彼女の死は僕の胸に深く突き刺さったまま、今でも消えない棘のように鈍い痛みを与えてくる。  ***  目を開くと、猫缶を食べ終わったモモがころころとなにかに絡みついてじゃらけていた。 「――ん?」  なんだこれ……?  そっと手に取ると、それは日記帳のようなものだった。 「これは……」  空色の装丁の表紙には、英語表記で彼女の名前が書かれていた。  その名前に、僕は目を瞠った。 「鷹嶺……茉莉……」  これは、日記だ。鷹嶺茉莉の……。  開こうとして、けれど寸前で手が止まる。  怖かった。  もしかしたら、この中には新たな未来にのうのうと羽ばたいていった僕たちへの恨み言や憎しみがびっしりと詰まっているかもしれない。嘘泣きで誤魔化した僕たちを批難する言葉にあふれているかもしれない。  怖い。でも、どうしようもなく気になった。  彼女がどんな気持ちだったのか、今さらになって知りたくなったのだ。理由は分からないけれど。  僕は、恐る恐る一ページ目を開いた。  そこには、つらつらと綺麗な文字で、言葉になることのなかった彼女の深い思いが綴られていた。 『彼女たちは、私が憎くて仕方ないらしい。私はただ、仲良くなりたかっただけなのに』 『もっと生きたかったけど、ちょっともう辛い』 『憎んでなんていない。ただ、悲しいだけ』 『本当は、だれかに助けてほしかった。いじめられていたシンデレラを王子様が見つけたように、だれかが私を見つけて、あたたかい場所に連れ出してくれたらって毎日祈った。でも、ダメだった。王子様はいない。神様もいない。だからもう、終わりにする』 『明日のテレビも興味ない。家族の言葉すら響かなくなりました。だれかの笑い声すら、私を嘲るものにしか聞こえなくて、怖い。生きる意味を見失ってしまいました』 『お父さん、お母さん。こんな弱い私でごめんなさい。うまく生きられない子供でごめんなさい。もし生まれ変われるなら、またお父さんとお母さんの子として、生まれたい。そして、今度こそ強い心を持って生まれたいです。今まで育ててくれてありがとう』  彼女の心の叫びに、僕は心臓がしわくちゃになったんじゃないかというくらい苦しくなった。  彼女の清々しい空色のノートに綴られていたのは、彼らへの憎しみや恨みではなく、ただただ、静かな悲しみと絶望だった。  彼女の心は完全に死んでいた。殺されたのだ。僕たちに。僕は、人殺しだ。彼女を殺した。モモを見つけたあの日、彼女は少し期待したかもしれない。僕がその王子様になってくれるんじゃないかと。たとえ、学校の状況が変えられなかったとしても、あの神社に言って話し相手になってやることならできたはずなのに。一緒にモモを見てやることだってできたはずなのに。  なぜ行かなかった?  なぜ、今さら。  彼女が死んだ今さらになって、なぜ僕はここに足を運んでいるのだろう……。  全身が雨に濡れたようにずっしりと重くなった、そのとき。 「――こんなところで、なにしてるの?」  ふと、だれかに声をかけられた。舌っ足らずな、あどけない声だった。  ハッとして顔を上げると、そこには四、五歳くらいの少年がいた。きょとんとした顔で僕を見下ろしている。 「お兄ちゃん、泣いてるの?」 「え?」  慌てて頬に触れると、生あたたかい感触を手のひらに感じた。それでようやく、僕は自分が涙を流していることに気が付いた。 「あ……いや、これは」  両手のひらで粗雑に涙を拭い、立ち上がる。恥ずかしい。こんな幼い子に、泣き顔を見られるなんて。  それに……僕には泣く資格なんてない。だれより泣きたかったのは、鷹嶺だろう。 「それ、ぼくの」  少年が僕が脇に抱えていたノートを指さした。 「え? で、でもこれは」 「ぼくの大切なものなの。返して」  少年は強い意志を込めた瞳で、僕を見上げている。 「……ねぇ、どうしてこれを君が持ってるの? もらったの? いつ? だれから?」  できるだけ優しく訊ねるが、少年は首を振った。 「知ってるよ。お兄ちゃん、コウカイしてるんでしょ」 「――え」  少年が告げた『後悔』という言葉に、どくん、と心臓が跳ねた。 「知ってるよ。お兄ちゃんのココロ、真っ黒だもん」 「真っ黒……」 「助けてあげようか」と、少年は言う。 「ぼくね、魔法使いなの。ぼくが願えば、お兄ちゃんはお姉ちゃんに会いに行けるよ」  ばかばかしい子供の戯れ言。そう頭では思っているはずなのに、僕の心臓はこれまでにないほどに騒いでいた。 「どう……やって?」 「時を戻すんだよ。ココロの時計の針を逆回転させるの。ぐるぐるって。ぼくはね、時間の波を変えることができるんだ。お話の中に飛び込むみたいに、カコに行ったりミライに行ったり自由自在だよ。ケツマツは変わらないけどね」  ――過去に戻れる……。  彼女がまだ生きていたあの頃に。  でも、会ってどうする?  僕は彼女のなんでもない。家族でもなければ友達でもない。彼女にとって僕は、いじめっ子のひとりだろう。それに、今さら彼女の運命は変わらない。それなら、会ったところで……。  ――と、真剣に考えている自分にハッとする。  まだ現実と空想の判断すらついていなさそうな子供の話。  くだらない。  そう、聞き流せばいいのにと思うけれど、この心の波は収まりそうにない。  もしかしたらという思いが消えなかった。  すると、少年は妙に大人びた笑みを浮かべた。 「お兄ちゃんは戻りたいんだよ。シンジツを知りたいんだ。いいよ。ぼくが戻してあげる」  密やかなその笑みに動けずにいると、少年は僕の手からノートを取り、胸に抱き締めた。ぱらぱらとページをめくり、口を開く。 「神社でモモを見つけた日、クラスメイトの男の子が声をかけてくれた。来栖景くん……いつもだれとも群れずにひとりで、クラスの雑音なんて気になりませんって顔をしてる。いいなぁ。私も、来栖くんみたいに強かったらよかったのに」 「え……それって……」  少年の言葉に、僕は動揺する。どうして、僕と鷹嶺だけが知ってるはずの話を……。というか、どうして彼女が僕がつけた猫の名前を知っているんだ? 「未来の君へ。君の未来が、七色に輝きますように。モモのことをよろしくね」  ぱたん、と少年はノートを閉じた。 「……どういうこと? 今のは、だれ宛のもの?」 「さぁ。答えは、彼女に会いに行くしかないよ」  彼女に友達なんていなかったはずだ。いや、校外にいたのなら分からなくもないが、それなら自殺なんてしない気がする。頭の中が混乱してきた。  それに、この少年は一体……。  次の瞬間。突風が吹き抜けた。驚いた僕は思わず目を瞑る。  こころなしか、葉と葉の擦れる音が大きくなったように思えた。  ***  風が止み、いつの間にか葉の音が消え、代わりに人の話し声が耳に触れる。  恐る恐る目を開けると、少し黄ばんだカーテンが目の前で揺れた。深緑色の黒板には、日直の名前と今日の日付。 「七月十八日……?」  息を呑む。  僕は、一年前の夏休み前の教室にいた。 「ねぇ、昨日のテレビ見た?」 「見たみた!」 「あの女優さぁ、あんまり可愛くないよね」 「えー私好きだけど」  クラスメイトたちの何気ない会話を聞き流しながら、僕は廊下側の一番後ろの席を見た。  そこには、静かに文庫本を読む彼女がいた。 「鷹嶺……」  彼女が生きている。当たり前のようにそこにいる。教室の中はこんなにも雑音であふれているのに、だれも彼女に声をかけはしなかった。彼女の周りだけが、切り離されたように静かだった。  クラスでも中心的な存在である女子グループのリーダー沢井が、わざと鷹嶺の机にぶつかる。がしゃん、と少しだけ大きな音がして、教室中が静まり返った。  衝撃で床に落ちた文庫本を、当たり前のように踏みつける足。本はぐしゃぐしゃだ。しかし、鷹嶺はなにも言わず、静かに踏み潰される本を見下ろしている。 「あっ、ごめーん。わざとじゃないよ」  たぶん、今踏みつけにされているのは、本ではない。彼女の心だ。  胸が苦しい。  前回も見たこの光景。僕はなにもせず、心も動かさず、ただ傍観していた。彼女の心が死んでいく様子を、黙って見ていた。 『王子様はいない』と、彼女はノートに綴っていた。  僕は、彼女の王子様に……なれるだろうか。  僕は静かに立ち上がり、鷹嶺の元へ向かった。  僕の気配に気付いた沢井が顔を上げる。そして、僕の手を見て硬直した。 「……あんた、なにしてんの」  周囲もざわつき始めた。 「なにって、録画だけど」 「はぁ!? ふざけんな! 消しなさいよ!」  沢井が目の色を変えて僕につかみかかってくる。バレー部である彼女は身長が僕と大して変わらない。 「そんな怒るなよ。ぜんぶ録画されてるよ?」  すると、沢井はいらついたように僕が向けたスマホから顔を逸らした。今さらカメラに背を向けたって遅いというのに。 「これ、ずっと持ってるから。これ以上ばかなことし続けるなら、これは出すべきところにちゃんと出すからな。バレないようにいじめればいいとかも考えるなよ」  沢井たちにそう言い捨ててから、鷹嶺を見る。 「お前も。次、こいつらになにかされたら言いなよ。こんなバカらしいこと、我慢する価値もない」  足元に落ちた文庫本を取り上げ、手で伸ばしてから鷹嶺に渡す。 「あ……ありがとう」  鷹嶺は驚いた顔のまま本を受けとり、小さく礼を言った。自席に戻り、窓へ視線を向けると、からりとした青空が広がっている。  ほんの少し、心のもやもやが晴れたような気がした。  放課後。 「来栖くん!」  ひとりで下校していると、後ろのほうから僕を呼ぶ声がした。  振り向くと、息を切らして僕の元へ走ってくる鷹嶺の姿がある。足を止め、彼女を待つ。  僕の前までやってきた鷹嶺は、膝に手をついて息を整えると、バッと顔を上げた。  そして、 「あの……さっきはありがとう!」  と、頬を紅潮させて言った。 「すごく……すごく嬉しかった!」 「!」  鷹嶺とまっすぐ目を合わせたことも、鷹嶺の飾らない笑顔を見たことも初めてだった。 「……いや、べつに。余計なことだったらごめん」  サッと目を逸らすと、鷹嶺はぶんぶんと首を横に振った。 「余計じゃない! ぜんぜん……余計じゃないよ」 「……なら、良かったけど」  これで、彼女への風当たりがよくなるかは分からない。むしろ、僕が介入したことでさらに悪化してしまうかもしれない。でも、そうだとしても、少なくとも彼女に『ひとりではない』ということを伝えることはできたのだと、彼女の穏やかな笑みを見て思った。 「あの……来栖くん。途中まで一緒に帰ってもいいかな?」 「……まぁ、いいけど」  並んで歩きながら、僕はちらりと鷹嶺を見た。 「あの……来栖くんって、いつもひとりだよね」 「僕は、他人に興味ないから」 「それなら、どうして私を助けてくれたの?」  鷹嶺は不思議そうに首を傾げて訊ねてくる。  一瞬、なんて返そうか迷った。未来で君が死んで、その事実を変えたかったから、なんて言えない。それに、返られる保証もない。  ……でも。 「……後悔してたから」  ぽつりと呟くように言うと、鷹嶺はえ、と元々大きな瞳を丸くして僕を見た。  僕は立ち止まって、鷹嶺を見つめ返す。 「ただ……鷹嶺のことが気になったんだ。変な意味じゃなくて……もっと知りたくなった。好きなものとか、いろいろ」  上手い伝え方が分からなくて、若干しどろもどろになりながら言うと、鷹嶺は小さくはにかんで、「嬉しい」と笑った。 「私……ひとりっ子でね、両親からは、ずっと手がかからないいい子って言われてきたんだ。だから、家族にも先生にも、迷惑かけちゃいけないって思ってた。いじめに遭ってることも、だれにも相談できなくて、ただ耐えるしかなかった。学校がきらい。クラスメイトがきらい。私の苦しみに気付いてくれない家族なんて、もっときらい。……なにより、こんな星のもとに生まれた、自分が一番きらい……」  まるで、舞台のセリフのように抑揚のない口調で、鷹嶺は言った。彼女の声に感情が乗っていないことが、さらに僕の胸を切なくさせた。  目を伏せ、僕は唇を引き結ぶ。 「……知ってた。鷹嶺がずっとひとりで沢井たちからのいじめに耐えてたこと。知ってて、知らんぷりしてた。本当にごめん」  頭を下げたまま、僕は続ける。 「今さらこんなことを言われても困るかもしれないけど……もうこれ以上我慢しないでほしい。もっと甘えて、もっと叫んで、訴えてほしい。とうしても先生に言えないのなら、僕に言って。僕は絶対鷹嶺のそばにいるし、鷹嶺の代わりにだれか偉い人に言ってやる。大人に有耶無耶にされないように、ちゃんとするから」  そう告げると、鷹嶺の大きな瞳はみるみる涙の膜を張った。 「どうして……そこまでしてくれるの?」  一瞬、言葉に詰まりかけたけれど、僕は言った。 「……さっきも言っただろ。後悔したくないんだ。このまま耐え続けたら、いつか心が折れるときがくる。そのとき君が間違った道を選んでしまいそうで、怖い」  直接的な言い回しではないけれど、おそらく僕の言葉の意味を理解したのだろう。鷹嶺は目を瞠った。 「今までひとりで、よく頑張ったね」  鷹嶺は白い頬に透明な涙を滑らせて、頷いた。  これは……この気持ちは、鷹嶺のことが好きだという下心ではない。ただ彼女の命を救いたいという神聖な気持ちだけでもない。  これは、僕が未来で後悔したくないというわがままでもあり、彼女への罪滅ぼしでもあった。 「来栖くん。また明日」  鷹嶺は控えめに微笑んで、僕に手を振った。 「うん。また明日」  何気ない挨拶に心があたたかくなると同時に、どうしてこれが彼女の当たり前にならなかったのだろう、と思った。  僕たちは同い年のクラスメイトなんだから、最初から上下関係なんてないのだ。鷹嶺が沢井たちに遠慮する必要も、傷付けられるいわれもない。  だから、胸を張って学校に行けばいい。堂々と自分の席に座って、笑っていればいいのだ。  もうなにも怖がらずに。  ***  それから、僕と鷹嶺は少しづつ仲良くなっていった。  クラスメイトたちは僕が以前録画した動画を公にされることを恐れたらしく、あの日から鷹嶺に危害を加えることをやめた。一応、彼女が脅されてもいいように、さらにいくつか彼女たちの口を封じられるだけの動画は隠し撮りしていたのだが、それは必要なかったらしい。  夏休みになり学校がなくなると、僕と鷹嶺は会うことがなくなった。たまにメッセージが来て、近況報告をするくらいに留まったままの関係が続き、夏休み半ば。  以前の記憶を頼りに、僕は神社に向かった。すると、そこにはやはり鷹嶺がいた。彼女の白い手の中には、仔猫がいる。モモだ。 「あれ? 来栖くん?」  鷹嶺は僕に気が付くと、驚いた顔をした。 「それ、捨て猫だよね?」  訊ねると、鷹嶺は呆気に取られながらも頷いた。 「そうみたい。でもどうしよう。うち、お母さんがアレルギーだから、ペットはダメって言われちゃうだろうし……」  それなら、と僕は鷹嶺に告げる。 「ここで一緒に飼わない? お互い餌を持ち寄ってさ」 「えっ、いいの?」 「ひとりだと結構負担になるかもだけど、ふたりならなんとかなりそうでしょ」  そう言うと、鷹嶺は嬉しそうに笑った。 「じゃあ、名前付けてあげなきゃ。なにがいいかなぁ」  僕はしゃがみこみ、鷹嶺の腕の中でうっとりする仔猫を撫でる。 「この子はモモだよ。カタカナでモモ」 「えっ、なんで白猫なのにモモ?」  そういえば、なんでだろう。僕はどうして、この子にモモって名前をつけたんだっけ。 「……なんとなくだよ」  すると、鷹嶺はくすくすと笑った。 「……ちょっと意外かも」 「じゃあ、鷹嶺はなんて名前がいいんだよ?」  訊ねると、鷹嶺は少しだけ考えたものの、首を振った。 「うーん、やっぱりモモがいい。ね、モモ?」  鷹嶺は表情をすっかり綻ばせながら、モモに言った。 「モモ、もう大丈夫だからね。せっかく生まれてきたんだから、私と一緒に生きようね」  鷹嶺はモモを顔の前まで抱き上げて、もう一度大丈夫だよと言い、優しく微笑んだ。そして、僕を見て言った。 「ありがとう」 「モモを見つけたのは君でしょ。モモはきっと喜んでるよ。私の声に気付いてくれてありがとうって。だから、お礼を言っているのはきっと、モモのほうだ」  彼女の頬を、涙がつたった。 「……うん」  その横顔に、ほんの少し、寂しさを感じた。  鷹嶺はすごい。後悔の渦に呑み込まれていた僕を救い、ひとりぼっちで死にかけていたモモを救った。  それに比べて、僕はどうだろう。  こんなことをしたって、鷹嶺の運命が変わるのかは分からない。変わらない可能性のほうが大きいのだと、あの不思議な少年は言っていた。 「……僕は、無力だな」  こんなことをしたってなんにもならないのに。  彼女をなにがなんでも助けたいのなら、鷹嶺にすべてを話して転校を進めた方がいい。もしくは、あの動画をSNSで拡散して、いじめっ子たちの居場所を失くしてしまえばいい。方法なんて、いくらだってあるはずだ。それでも僕は、結局その中のどれも選んでいない。  怖いのだ。彼女を助けたいのに、運命を変えてしまうことが。  僕は、いつからこんなに臆病になったのだろう……。  俯いていると、鷹嶺がすくっと立ち上がった。 「ねぇ」  顔を上げて、鷹嶺を見る。目が合い、ハッとして思わず逸らした。そして、もう一度目を合わせる。 「……なに?」 「星祭、行かない?」 「え?」  心臓が、ばくんと跳ねた。  だって、星祭は――彼女が死んでしまった日に開催されたお祭りだったから。  そして、運命の星祭の日。鷹嶺は、待ち合わせた場所には姿を見せなかった。  ***  鷹嶺が死んだと知ったのは、翌日、登校してからだった。  鷹嶺が川へ飛び込むところを見たという人からの通報が、警察に寄せられたらしい。鷹嶺はそのまま流され、ずいぶん下流で遺体で発見されたという。  始業式が終わると、僕は教室に戻らずに屋上へ来ていた。顔を上げると、青々とした空が広がっている。どこまでも続く空に、目眩がするようだった。  彼女は――なんのために死んだのだろう。そして僕は、なんのために過去に戻ったのだろう。結局、未来は変わらなかった。  鷹嶺は自殺して、僕は後悔を抱いたまま、たったひとりで今を生きている――。  放課後。僕は神社に来ていた。  モモに猫缶をやりながら、ぼんやりとする。  モモの小さな白い背中を撫でると、ほんのりとあたたかな感触が手のひらに伝わった。 「やあ」  ふと、声が聞こえて振り向く。そこには、あの少年がいた。胸には、鷹嶺のノートを抱えている。 「彼女、死んじゃったんだってね」 「…………」  責められているような心地になって、僕は思わず少年から目を逸らした。  仕方がなかったのだ。僕なんかに、彼女の死をどうこうできるはずがなかった。彼女を助ける術なんて、最初からなかったのだ。  明日からまた、以前と同じ日々を過ごすだけ。なにも変わらず、なにも感じず、これまでの日々に戻ればいい。  そう、頭では思うのに。  ぽろぽろと、頬をつたうなにかがある。あたたかいなにか。 「どうして泣くの?」 「どうしてって……そんなの、鷹嶺を助けられなかったからに決まってるだろ。君は悲しくないの? 鷹嶺と知り合いだったんだろ?」 「悲しいよ。だからぼくは、心を殺したんだもの」 「え……?」 「ぼくは君で、君はぼくだ」  ざわ、と風が動いた。  戸惑いながら少年を見ると、澄んだ紺色の瞳とかちりと視線が重なった。その瞳にどこか既視感を感じて、僕は硬直する。 「君がお姉ちゃんを助けることなんて無理だよ。だって、お姉ちゃんが溺れていた君を助けたんだから」 「は……?」  少年の言葉に、頭の中でビジョンが弾けた。 「!」  唐突に涙があふれる理由に思い至り、余計に嗚咽が漏れた。  ――幼い頃、それも十数年前のことだ。  僕は、どこかの知らない街に迷い込んだことがあった。  その日は真夏のお祭りで、僕はお母さんと一緒に来ていたのだが、ものすごい人混みでうっかり手を離してしまい、はぐれてしまったのだ。  そしてお母さんを探しながらひとりで川辺を歩いていたとき、苔が生えた石に気付かず、足を滑らせた。  川に落ちた僕は、まだ泳ぎなんてぜんぜんできなかったから、どんどん流された。  騒がしいお囃子の音と、人々の話し声が急にボリュームを上げたように耳を支配した。水に呑まれ、すべてを諦めようとしたそのとき、だれかに強く手を引かれた――。  ――そうだ、思い出した。  あのとき、僕を助けてくれたのは鷹嶺だった。鷹嶺だけは唯一、僕の声にならない声に気づいてくれていた。そして、懸命に手を伸ばしてくれていた。  目が覚めた僕は、なぜだかこの神社の裏で倒れていた。すぐにお母さんがやってきて、泣きながら僕を抱き締めた。 「そうだ……あの日、この神社の裏で僕は……」  ――鷹嶺は、自殺ではなかった。鷹嶺は、僕を助けるために死んだのだ。彼女は自分から命を絶ったのではない。人生を諦めたわけではなかった。ほかでもない僕の叫びを聞いて、手を伸ばしてくれたのだ。  彼女は僕を岸にあげると、ひとことこう言った。 『モモをよろしく』  そうだ……モモのことは、僕がモモと名付けたわけじゃない。モモは、彼女が付けた名前だった……。  再び、涙があふれた。 「どうして僕……こんな大切なことを」  忘れていたのだろう。忘れられたのだろう。  項垂れていると、少年が言う。 「目を覚ましたぼくは、ぜんぶ忘れていた。自分が川で溺れていたことも、お姉ちゃんのことも」 「僕はあのとき……未来に迷い込んだ。そして、鷹嶺に助けられた」  でもそれなら、僕が最初に出会った鷹嶺は? 「この物語は、僕がお姉ちゃんの死に後悔して過去に戻って初めて進むんだ」 「じゃあ、お前は? 僕なんだろ? お前はどこからきて、どこに戻るの?」 「さぁね。それはまた、べつのお話なんだってさ」  そう言って少年は、僕にノートを渡した。 「じゃあ、ぼくはもう行くよ。またね」 「…………」  少年がいなくなった竹林の中で、僕は崩れ落ちた。 「ごめん……泣いてごめん」  泣きたいのは君のほうだよね。  僕はずっと、君に助けられてばかりだった。君を助けることができなくてごめん。君を守れなくてごめん。  そうか。僕はあの日、君に守られたんだな。それなのに僕は、君を守ろうともしなかった。ごめん。失望したよね。本当にごめんなさい……。 「鷹嶺……ありがとう……」  ほかのだれが知らなくても、僕だけは彼女の勇姿を知っている。  空を見上げる。清々しい青色の中に、白い太陽がぽっかりと浮かんでいる。 「鷹嶺。僕は君のことが、大好きになったよ」  またいつか、長い旅路の先で君と出会えますように……。
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