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高校からの帰り道。一人歩く僕の上には、藍色の帳が落ちている。とはいっても、まだ陽の光が少し下の方を照らしていて、なんというか、紺色と藍色と薄い紫色の布地を切り貼りしたような空だ。その布地には、真上になればなるほど、ビーズを散りばめたような星たちがちらちらと瞬いている。
今日は、なにかいいことがありそうな気がする。
そんなことを思いながら、長い長い坂を下る。僕の家は、坂の途中にある。メゾン・ド・エデン。それが僕の住むアパートメントの名前だ。築二十年のボロアパート。外壁は深い緑に覆われ、一見するとお化け屋敷だ。それでも、住めば都というものである。庭には雑草が茂っていて、歩くたび、さくさくと音がする。
その音が、ふと、止まる。世界中の時が、かちりと音を立てて止まったような気がした。開いた瞳の中に、清楚な水色のワンピースが花びらのように舞い込んでくる。ふわり、と甘い香りがする。栗色の長い髪が風に踊る。美しく整った横顔を、ひょっこりと顔を出した月の光がかすかに照らしている。
息を呑む。
目の前にあるのは、おんぼろアパートだ。その庭の雑草の中に、浮世離れした少女がいる。女優か、と思うほど、雑草の中で佇むその人は美しい。まるで、雑草の中に美しい花を見つけたときのように、目が逸らせない。動けない。
この瞬間、僕はたぶん、この人に恋に落ちた。
「あの……」
自分の声が、水の中で響いたような音で響く。どきどきする。胸が、走ったあとのように騒ぎ出した。
気づいたその人が、くるりと僕を見る。大きな瞳はガラス玉の様に透き通っていて、産まれたての子鹿の瞳のようにみずみずしい。彼女は軽やかに雑草を踏みしめて、僕の元へやってくる。
「あの、私今日からこのアパートに住む水海ほたるです」
ころころと、鈴が転がるような可愛らしい声で言った。
「神津千太郎です。一○二号室です。よろしくお願いします」
「カミヅ……さん。よろしくお願いします。あの、その制服ってもしかして、坂の上の?」
「そうですけど……」
「私も明日から、椿坂高校なんです! 一年生! 学校でも、よろしくお願いします」
「そうなんだ。僕は二年なんだ。よろしく」
学校まで一緒だなんて、なんという運命か。胸が弾む。それにしても珍しい。椿坂高校には寮がある。わざわざ学校から少し離れたアパートに引っ越してくるなんて、なにか事情があったのだろうか。
「では、また明日」
「あ……はい」
ぺこりと礼儀正しく礼をして、水海さんは僕の隣の部屋へ入っていく。結局、彼女は庭でなにをしていたのだろう。
翌朝、いつも通りに部屋を出る。歩道に出ると、少し前に水海さんがいた。彼女はふらふらとおぼつかない足取りで歩いている。新しい街が新鮮なのか、周囲を見回しているようだ。前方から、学生と思しき制服を来た男性が、自転車に乗って坂を降りてくる。しかし、水海さんは自転車を避ける気配はない。よそ見しているせいで、前から来る自転車に気付いていないように見える。
「水海さん!」
僕は咄嗟に水海さんの肩を抱き、端へ寄せた。
「わっ……と、神津さん? おはようございます」
ふにゃりと柔らかく微笑む水海さんに、ほっこりしかけるが、「いや、じゃなくてよそ見してたら危ないでしょ」と注意する。
「街並みの景色が良くて、つい」
まったく、と思いながら、僕は彼女の隣、車道側に立つ。
「一緒に行ってもいいですか」
「はい!」と、無邪気に微笑む水海さんに、僕は頬を緩ませる。
「水海さんは、どうしてこんな時期に転校?」
訊ねると、彼女はにっこりと微笑み、僕を見上げる。
「ちょっと、やりたいことがあって。それより、ほたるでいいですよ!」
「あ、じゃあ、僕のことも千太郎で」
「はい! 千太郎くん!」
恋ってもっと難しくて無情なものかと思っていたけれど、僕たちはなんて順調な恋路を歩んでいるんだろう。
水海さんと下駄箱の前で別れ、一人で階段を昇っていると、背後から思いっきり衝撃を受けた。背負っていたリュックにパンチを食らったのだ。階段でそんなことをしてくる奴は、一人しかいない。ゆっくりと振り向くと、想像していた顔がそこにある。
浅野健太。高校でできた友達だ。能天気で、時場所場合を弁えず騒がしいが、悪い奴ではない。彼はなんと、現防衛大臣の子息である。
「おはよう、健太……と、紗彩ちゃん」
健太の背後にいたのは、時の内閣総理大臣、秋時正一郎の娘、秋時紗彩だ。髪はショートで、しゅっとした輪郭にくっついた目は猫のよう。スカートよりはショートパンツが似合う性格のやんちゃ娘である。健太と馬が合うらしく、二人はよく一緒にいる。
「おっはよう、千太郎ー! というかなんだよ、さっきの女の子! めっちゃ美人じゃん!」
「おはよう! まさか、彼女?」
耳をつんざくかのごとく、大きな挨拶が返ってくる。可愛い子に目がない健太は、早速水海さんに興味津々のようだ。というか、紗彩もらんらんと目を輝かせている。
「同じアパートの子だよ」
「寮じゃないんだ。珍し」
「何組?」
「一年だよ」クラスは知らない。
「後で連絡先教えて!」
「あっ、私も……」
「ダメ。絶対」即刻拒否だ。二人に連絡先を教えたら、彼女になにを言うか分かったもんじゃない。
「ケチ臭いこと言うなよー! さてはあれか、あの子は俺のもんだってか!?」
「まさかの彼氏面!」
健太は楽しそうに僕の肩を小突いてくる。一方紗彩は下品に大きな口を開けて、げらげらと笑っている。まったく、二人して朝から騒々しい。
「いやぁ嬉しいよ。お前もとうとう恋に目覚めたか」
「赤飯炊こう」
「やかましいわ」
僕はなんとか話題を逸らそうと、必死に頭を回転させる。ちょうどいい話題を思いついた。
「そんなことより、今日現国のテストだよ。お前ら、ちゃんと勉強してきたの?」
「えっ!? いや、ただのミニテストだし! なんとかなるだろ!」
「そそ、そうだよ! テストなんてちょろい!」
視線がどっかにいっている。
「そう言って、この前赤点ギリギリだったじゃん。ミニテストも成績に入るんだぞ」
「そう真面目なこと言うなって!」
「ほらーお前ら、なにしてるんだ? 早く席につけよ」
じゃれ合っていると、突然ぽん、と頭の上に小さな衝撃。振り返ると、担任の赤井慎二が、僕らの頭にバインダーと名簿を載せていた。
「おはようございます……」
「はい。おはよう。ほら、ホームルーム」
「はーい」
僕たちはいそいそと席につく。赤井先生は、噂だとこの椿坂高校の理事長の孫だとかなんとか。そんなことはべつにどうだっていいけれど、目をつけられるのはごめんだ。
赤井先生は、普段は優しいが怒ると怖いことで有名だ。たとえば、悪ふざけが過ぎたときとか、誰かをからかい過ぎて泣かせちゃったりしたときとか。瞳が殺人鬼のそれになる。つまり、彼は怒らせない方がいいのである。
さて、つまらない一日が始まる。僕は机に頬杖をつき、ぼんやりと教室全体を見渡した。
僕の目に映る教室は、少しだけ褪せた色をしている。陽に透ける埃や、風になびくカーテン。窓の先には、健太たちが住む寮がある。
タワービルのような造りの豪華な寮だ。それが視界に入り込むたび、僕の心には暗い翳が落ちる。僕の心の奥深く、固く氷で閉ざされているはずの記憶が、とろりと溶け出すのだ。あの日で止まったはずの時間が、かちり、と音を立てて、ご丁寧に巻き戻しを始める。
***
五年前の夏。
けたたましいサイレンの音の中、僕は絶望を知った。黒煙が細い糸のように空へ昇っていく。見上げた先には、鈍色の空からなにかが降ってくる。灰と、瓦礫と、そして、人。視界に入ったすべてがスローモーションになって降ってくる。地響き。悲鳴。叫び声。
地の底の地獄とは、こういう情景なのだろうか。とても現実とは思えない世界が、僕の目の前に広がっている。
「逃げろ!」
「危ない!」
強く腕を引かれる。直後、重量のあるなにかが僕の足元に落ちた。ぐちゃりと嫌な音が耳朶を震わせるが、僕はその場に立ち尽くしたまま、動くことができない。
落ちる直前、視界に入った影。その影は人の顔をしていた。そしてその顔を、僕はよく知っていた。
「お父さん……?」
それが地面に叩きつけられた瞬間、僕の顔に生あたたかいなにかが飛ぶ。足元を見ることができない。頭の中が真っ白になる。生臭い匂いで胸やけがする。
「タワーが崩れるぞ!」
怒声が飛ぶ。しかし、足の裏から地面に根が張ったように、身動きが取れない。
「おい! そこにいたら危ない! 早くこっちに来るんだ!」
「ほら、早く!」
腕を掴まれ、無理やり引っ張られていく。ようやく凍りついていた関節が動こうとしたとき、背後でまた音がした。なにかが潰れるような、嫌な音。恐る恐る振り向く。そこには、赤黒い血溜まりがある。それはどんどん大きく膨らんでいって、中心にあるなにかを染めていく。
人だ。なにも映していない瞳が、じっとこちらを見ていた。叩きつけられた衝撃で、顔半分が潰れている。けれど、それでもそれが誰なのかははっきりと分かってしまった。
「お母さん……?」
直後、この世の終わりのような大きな音を立てて、目の前のタワーが崩れた。
「おーい、聞いてるのか? 千太郎」
ぼんやりしていた。
「千太郎?」
赤井先生の声がする。視線が一斉に僕に向き、ハッとする。
「あっ、すみません」
思わずびっと姿勢を正して立ち上がる。すると、赤井先生はにやりと口角を上げてからかうように言った。
「まったく、ちゃんと話は聞けよ。罰として、また一日スマホ没収するかー?」
「勘弁してください……」
僕は何度か、赤井先生にスマホを没収されたことがある。もちろん先生の話を聞いていなかったり、テストの点が悪かったり、全面的に僕が悪いのだけれど。
「今回はいい。ちゃんと話は聞くように」
「はぁい」しゅんとしながら席につく。
「ドンマイ」と、隣の席の女子が声をかけてきた。
姫菱朱音だ。彼女は、この国屈指の大財閥のご令嬢である。
「赤井先生に楯突くと、すぐにスマホ取られるからさ。ここは素直に謝っておかないとね」
こそっと言うと、朱音はくすくすと肩を揺らして笑った。
「そういえば、赤井先生って私たちのスマホ覗き見てるって噂。前、サイバー関係の仕事に就いてたんだって。変なサイト見てるとバレちゃうから気をつけて?」
「ははは」
めちゃくちゃ馬鹿にされている。朱音は悪い子ではないけれど、たまにデリカシーに欠けることを言うので、女子にはあまり好かれない。あとたぶん、美人というのも、女子に好かれない要因の一つである。
苦笑いを返すと同時に、一日が始まる鐘の音が高らかに学校中に鳴り響いた。
学校が終わると、当たり前のように昇降口で佇むほたるさんに声をかける。
「待ってました!」
ほたるさんは、声をかけると人懐っこい笑みを浮かべて、僕の元へ駆け寄ってくる。
可愛らしい。
「帰ろうか」
「はい!」
「学校はどう?」
「はい! みんないい方で、楽しいです」
「ほたるさんはいつもにこにこしてるから、みんなに好かれそうだね」
「え、そうですか?」
ほたるさんは、少し照れたように頬を染める。そんな彼女を微笑ましく思いながら、僕たちは夕暮れの学校を出る。
僕たちは、まるで磁石のように惹かれあった。最初からそう決まっていたかのように、彼女はすっと心の中に入ってくる。ずっと、他人の侵入を拒んでいた僕の心に、こうも簡単に。
真夏の夕方、陽が傾いた空の下。ほたるさんの手が伸びる。ほのかな体温が、僕の手の甲に触れた。その瞬間、手がびくっと小さく反応する。ほたるさんの横顔は、にこにこだ。嫌がられていないみたいでホッとする。すると今度は、手のひらにするりと彼女の温もりが伸びてきた。ほたるさんが、キュッと僕の手を握ったのだ。
「え……」
思わず、彼女を見る。
「ダメでしたか?」
窺うような視線がそこにある。
「……いや」
目を逸らした。
だめではない。でも、いいのだろうか。
心の中で、相反する気持ちがどんどん膨れ上がっていく。
戸惑いながらも、その華奢な手を握り返す。そっと、宝物を包むように。柔らかくて、温かい。女の子の手って、こんなにふわふわしているのか。こんなぬくもり、僕はきっと知らないままで死ぬと思っていた。
「ねぇ、千太郎くん」
ほたるさんはあらたまったように僕を見上げ、訊ねる。
「なに?」
「千太郎くんは、どうして寮じゃなくて、あの部屋にいるの?」
「それは……」
黙り込む。
言うべきかどうか。こんな重い話、まだ付き合ってもいない男に言われたら、どう思うだろう。僕はそっと、ほたるさんから手を離した。
「……集団の中の共同生活って、苦手なんだ」
「……ふうん」
しんみりとした空気が流れる。ふと、ほたるさんが離した僕の手をぱっと掴んだ。じんわりと、胸の消えかけた火をつけ直してくれるように、手のひらにぬくもりが広がっていく。
「ねえ! 帰り、海寄ってく?」
「うん」
僕の想いは、どんどん加速していく。早く、この手を離さなきゃいけない。だって僕は、これから人を殺そうとしているのだから。
***
海辺を軽く散歩してから部屋に戻る。暗闇に包まれていた部屋の明かりを付ける。壁一面には、隠し撮り写真や新聞などの切り抜きがびっしりと敷き詰められている。
新聞の切り抜きには、五年前のテロ事件の記事。実行犯のことや、当時の事件概要の事実や被害者の名前が載っている。
僕の両親は、政治家だった。両親は五年前の夏、とあるテロの犠牲になって死んだ。
計画を企てたのは、両親が所属する政党を批判していた右翼団体だった。右翼団体は、事件後解体。主導していた幹部たちはすぐに捕まった。けれど、実行犯は未だ捕まっていない。牢獄の中で、幹部のひとりはこう言った。
「テロを起こしたのは、カルミアという暗殺者だ」と。
両親は優しい人だった。幼かった僕には、政治家である両親がどんな仕事をしていたかは知らない。もしかしたら、人にはとても言えないことをしていたのかもしれない。でももしそうだとしても、少なくとも僕の前ではふつうの、父と母だった。優しい両親だった。
それをあんな形で失って、許せる子供はいない。両親は、タワーが爆破されたとき、最上階にいた。そして、タワーが崩壊すると知って、最上階から身を投げ、タワーが崩れる前に自ら命を絶った。
けれど、自殺ではない。他に方法がなかったから、そうしたのだ。右翼団体に殺されるくらいなら、自分でその結末を作ったのだ。僕はそう思う。
そして、目の前で二人が死んだあの日、僕は誓った。
――この事件を起こしたカルミアに仇を打つ。
右翼団体の幹部たちついては警察に捕まり、既に死刑が確定している。だが、肝心の実行犯であるカルミアがまだ逃亡している。
カルミアという名前は、毒花カルミア・ラティフォリアからきているようだ。カルミア・ラティフォリアは美しい花だが、人を死に至らしめる猛毒を持つと言われる。
カルミアは、年齢も性別も居住場所もすべてが不明。謎が多い暗殺者だ。 でも、必ず見つける。
カルミアは、金さえ払えば寄ってくる。ターゲットになるのは、大体政財界の子息や会社経営者の子供たちだ。両親を失い、ただの一般人になった今も金持ちが多く通う椿坂高校に通っているのは、そのためだ。政財界とのコネクションを持っていた方が、そういった情報は入ってきやすい。
でも、寮には入らなかった。寮だけはダメだった。あの日以来、僕は背の高い建物には入れなくなってしまったのである。
洗面所に行き、顔を洗う。水が頬をつたい、顎に滑り、ぽたりと滴り落ちていく。なにかを洗い流した気になるけれど、僕の中には、甘い感情とどす黒い感情が渦巻いている。
もう一度、今度は蛇口を手に取り、頭から水を被る。そして、言い聞かせた。
僕は、親の仇を打つためだけに生きているのだ。復讐の炎に生かされているのだ。よそ見する暇なんてない。
「恋なんてしてる暇はないんだ。僕には、やらなきゃならないことがあるんだから」
鏡の中の自分を見る。
僕は……。
瞬きをする。視界が暗転した。直後、パッと光が入ったように、目の前に醜い化け物が現れる。人の皮を被った、恐ろしき殺人鬼だ。瞳から、赤い血の涙を流している。顔は変形し、潰れ、血が滴る。
恐ろしくなって、思わず歯磨き用のコップを鏡に叩きつけた。蜘蛛の巣状のヒビが入り、様々な角度から僕を映し出す。ぱらぱらと、砕けたガラス片が洗面器の中に落ちていく。欠片を水で洗い流し、目を瞑った。
ふと、スマートフォンが振動する。見ると、とあるサイトから一件のメッセージが届いていた。サイトを開くと、被害者の会とある。それは、暗殺者に殺された被害者たちが集まる場所。彼らを追いかけ、殲滅するために設立した、情報を交換し合う裏サイトだ。
アダムというペンネームの人物が、書き込みをしていた。数分前だ。
『カルミアは今、椿坂高校のだれかを狙っているよ』
椿坂高校は、僕が通う高校だ。僕は、すぐにアダムさんに訊ねる。
『たしかな情報ですか?』
すぐに返信が来た。
『間違いない。私は、カルミアに依頼をしようとした。しかし、仲介人に今は別の任務中だから少し待てと言われた。先に依頼を伝えたら、仲介人はそれなら依頼は既に完了していると言ったんだ。つまり、そういうことだろう?』
「アダムさんと今カルミアに依頼した人は同じ人をターゲットにしていたってこと……?」
『あ、もちろん、嘘の依頼だけどね』
と、慌てた様子で返信が来る。
『ありがとうございました』と打ち込み、サイトから離脱する。
ようやく巡ってきた。
本当にカルミアが椿坂高校に潜入しているとすれば、これ以上ないチャンスだ。
顔を上げる。粉々のガラスの破片に映る僕の顔に、もう迷いはなくなっていた。
***
翌朝、僕はいつもより一時間早く学校へ向かった。空には、産まれたての朝日が坂の下にぽつんとある。空気は澄んでいて息をするたび、新しい空気が肺に入り込んでくる。全身が洗われていくようで、心地良い。生きている、と感じる。
カルミアがターゲットにするであろう人物リストは、既に作成してある。カルミアは、報酬が高いことで有名だ。その分、確実な仕事をする。報酬が高いため、依頼主は国のトップレベルの資産家に限られる。それらが邪魔とする人物たちの子息がターゲットである可能性が高い。
一人ひとり、名前を確認する。現防衛大臣の息子である浅野健太。あとは、この国屈指の大財閥の令嬢・姫菱朱音と、内閣総理大臣の娘・秋時紗彩。このときのために、僕はこの三人としっかりとした関係を築いてきた。囮にするのは申し訳ないが、そうまでしても僕はやり遂げたいのである。
今日より僕は、この三人を注視する。
***
ほたるは朝、庭で千太郎が出てくるのを待っていた。しかし、千太郎はいつまで経ってもやってこない。
おかしい。いつもなら、ほたるより先に庭にいたりするのに。ほたるが出てきてから、もう十分は経っている。今日は休みなのだろうか。インターホンをならそうかとも思ったが、そもそも一緒に行く約束などしていない。迷惑かもしれない。なにか用事があって、先に行ったのかもしれない。そう思うけれど、足は動こうとしない。
どうしよう。
スマホを見る。時刻は午前八時十分。既に遅刻ギリギリだ。
迷った末、
「……あと五分だけ」
しかし五分経っても、部屋の扉から千太郎が出てくることはなかった。
とぼとぼと学校に向かう。校門は既に閉まっていて、昇降口も廊下もがらんとして静かだった。
もう授業は始まっているだろうか。時間を見ると、ちょうど一時限目が始まるところだ。少し先の渡り廊下を駆け足で過ぎていく生徒が四人いる。女子二人と男子二人。ブレザーのスカートが赤いから、一学年上だ。特に気にもせずくるりと背を向けようとして、聞こえてきた声に足を止める。
「朱音! 早くしないと遅れるよ!」
千太郎の声だった。ぱっと、胸が弾む。
けれど、
「待ってよー。少しくらい遅れたって大丈夫よ」
「おーい、先行くぞー」
「千太郎ってば、朱音なんか放っておけばいいのにー」
楽しそうな四人組。まるで、青春映画の一コマのようだ。
すうっと心が冷えていく。冷えた心臓が、棘でも刺さったかのようにじくじくと痛む。
ほたるの顔から、表情が消える。胸の中がもやもやした。このもやもやはなんだかいやだ、と思う。気持ち悪い。早く、昇華しよう。
ほたるは、教室ではなく寮タワーへ向かった。
***
それから、なにごともなく放課後になった。僕は、トイレにこもりスマホを見る。サイトを開くと、また書き込みが数件あった。なんだか盛り上がっている。
『カルミアが動く』
カルミアが動く。どくん、と胸が弾む。
『いよいよだ!』
『依頼期日は、明日らしいからね』
『またたくさん人が死ぬんだな』と、アダムさんが書き込む。
『だれか、あいつの正体を知っている奴はいないのか』
随分盛り上がっている。
大丈夫。僕が絶対、カルミアを止める。カルミアの息の根を止めるのは、僕だ。でも、ターゲットは誰だろう。
『ターゲットか、依頼人が分かる人はいないんですか?』と、打ち込む。
『姫菱朱音だと思ってたけど。あれ性格クズなんでしょ?』
『浅野健太一択。今の防衛大臣マジで草』
『いやいや、秋時紗彩だろ。金持ちは例外なくタヒね』
『ま、椿坂高校のだれかってことはたしかだな』
ダメだ。みんな、ターゲットのことは知らないようだ。
「それじゃあ全然絞れてないんだよな……せめて依頼人が分かれば、狙われる奴も絞られてくるのに」
一番確率が高いとすれば、時の内閣総理大臣の娘である朱音か。
だが、殺すにしてもどうやって殺すだろう……。毒殺? 刺殺? それとも、遠くからの銃撃か。
歩きながら考える。昇降口を出ると、目の前には大きなタワーが見える。寮タワーだ。一瞬、フラッシュバックに脳がずきりと痛む。額を押さえ、うずくまる。頭痛がおさまるのを待っていると、ふと、自分の影が目に入った。黒い影が蠢く。顔を上げると、そこには寮タワー。
「……もしかして」
サイトの書き込みをもう一度見る。やはり、一人だけおかしなことを言っている人がいる。
『――またたくさん人が死ぬんだな』
なぜ、たくさんなんだ? アダムさんは、何者だ?
「もしかして、依頼主なのか……?」
『アダムさんは、椿坂高校の関係者ですか?』
訊ねるが、返答はない。
『ユーザー・アダムさんが退室しました』
画面上部に、突如として表示される。
『あれ。アダムさん退室しちゃったね』
『それより、ターゲットは誰だろうな』
『というか、今回はどんな手で殺しにかかってくるんだろうな』
やはり。
僕は確信した。アダムさんが依頼人だ。そして、アダムさんが殺害依頼をした人はきっと、一人ではない。
タワーを見上げる。五年前、カルミアは国会タワーを爆破した。カルミアはたぶん、今回もあのときと同じように爆弾を使って、全員皆殺しにするつもりなのだ。拳を握る。握った指先が白くなっても、力を緩めることはできない。僕は、寮タワーに向かって走り出した。
目の前には、大きなガラス張りの扉がある。足が竦む。トラウマが過ぎる。急激に頭が痛くなってくる。自分自身を抱きしめるようにして、俯く。
「お父さん……お母さん……」
ひどい声が出た。
ダメだ。やっぱり僕は、この中には入れない。とりあえず、電話しよう。スマホを取り出し、連絡先を開く。
――と。視界の端のガラスがきらりと光る。音もなく扉が開いた。
「……千太郎くん?」
顔を上げると、寮タワーのエントランスから出てきたのは、ほたるさんだった。
「ほたるさん? どうして……」
ほたるさんがにっこりと笑う。
「学園の散策をしてました。ここ、すごく広くて果樹園とか植物園まであるから。……千太郎くんこそ、どうしてここに? 今日はお休みなのかと思いました」
僕は思わず、目を泳がせる。
気まずい。今朝は彼女を置いて、なにも言わずに登校してしまった。
「あ……今朝はその」
ほたるさんは人好きのする笑みを浮かべ、僕の手を取る。
「今から帰るなら、一緒に帰りましょう?」
「え? あ、いや……」
「どうかしたんですか? この寮に、なにか用が?」
ほたるさんが背後を振り返る。
「ねぇ、ここで、変な人見なかった?」
「変な人? いえ? どうしてですか?」
ほたるさんはきょとんとした顔で、小首を傾げている。
この子を巻き込むわけにはいかない。
「とにかく、ほたるさんはもう帰って! ここは危ないから」
「千太郎くんは帰らないんですか?」
「僕はやることがあって……」
目が泳ぐ。
「やることってなんですか?」
ほたるさんは、まっすぐに僕を見つめて訊ねてくる。僕は怖くて、その目を見つめ返すことができない。
「それは……ごめん。ごめん。君はもう、僕には関わらない方がいい。僕は、まともじゃないから」
困惑の瞳が、僕を映す。ほたるさんの長い睫毛が、細かく震えている。僕は、目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「……僕は、闇を抱えてる。僕はこれから、人を殺すんだ」
ほたるさんの黒々とした大きな瞳が、めいっぱい見開かれる。つやつやとして潤んだその瞳に、うっかりすると吸い込まれそうになる。僕は自嘲気味に笑った。
「五年前の国会タワー爆破事件、知ってるだろ?」
ほたるさんは黙り込んだまま、僕の言葉に耳を傾けている。
「僕の両親は、国会議員だった。あの事件の犠牲者で……あの日、最上階から飛び降りて死んだんだ。あの事件で死んだ人の多くは、僕の両親と同じように、タワーが崩れると知って窓から飛び降りた死者が多かったんだ。国はそれを、鈍的外傷による殺人とした。自殺じゃない。殺されたんだ。カルミアという、たった一人の暗殺者によって」
「……千太郎くんは、そのカルミアっていう暗殺者を追ってるの?」
声が少し震えている。
そうだろう。怖いだろう。僕は、君とは生きる世界が違うんだ。これ以上は、ダメなんだ。
「ごめん。でもそれが、僕が生きる理由だから」
背中を向け、歩き出す。彼女は追ってはこなかった。当たり前だ。復讐をカミングアウトされて、恐ろしくない人はいないだろう。
胸が絞られるように痛むけれど、僕は歯を食いしばって、涙を我慢して歩く。
僕たちはきっと、こういう運命なんだ。
その日の夜はひっそりと、静かにふけていった。
***
それから二週間、この国は一見平和だった。相変わらずどこかの街角で通り魔が出たり、怨恨が原因による殺人事件が起きたりはしているけれど、テロのようなものは、なにもない。無論、椿坂高校もいつも通りだ。
僕は焦っていた。どうして、なにも起こらないのだろう。どうして、カルミアは姿を見せないのだろう。
ベッドに腰かけ、暗い部屋の中でサイトを確認する。
『最近、新しい暗殺組織が立ち上がったらしい』
『復讐専門代行暗殺だとか』
『拠点は離島らしい』
『だれかウチの担任殺してくれー。お金は出せないけど』
『俺、あの女優嫌い。黄山みどり』
『嫌いってだけで殺すのかよ』
『だってテレビに出てんのムカつくじゃん。うちのクラスの転校生の方がずっと可愛い』
『マジ? 美少女いるの?』
『激カワなのがいる。というか今日、その子から郵便届いた。花束と可愛いぬいぐるみ。これってもしかして脈アリ……』
『いいなー。俺の学校みんなブスで草』
『草草草』
書き込みに、カルミアに関することはない。ため息をつきながら、サイトを閉じる。
カルミアが椿坂高校の誰かを狙っているというのは、やはりデマだったのか。
そのとき、スマホが振動した。メッセージが入っている。見ると、サイトからではない。メッセージアプリの方だった。
「ほたるさん……?」
そういえば、彼女ともしばらく顔を合わせていない。メッセージには、『今夜零時、庭で待っています』とある。
零時まで、あと三十分。なんだろう。
呼び出された時刻より少し早く、庭に出た。そこにはいつどんなときに見ても美しい佇まいの女の子がいる。
丁寧に梳かしつけられたさらさらの髪は、淡く月明かりに輝いている。つい、息を忘れて魅入ってしまう。まるでかぐや姫みたいだと思う。
草を踏み締めた音で僕の存在に気付いたほたるさんが、ゆっくりとこちらを向く。
その映像は、まるでスローモーションのように僕の目に飛び込んでくる。
ほたるさんは僕を見ると目を細めて、言った。
「花火が始まりますよ」
「え……?」
眉を寄せると、彼女はまた前を向いた。視線を追うと、その先には寮タワーがある。
初めて気が付いた。
「この庭から、あのタワー見えたんだ」
とはいえ、花火ってなんだ?
「カルミアは見つかりましたか?」
ほたるさんの問いに、僕は力なく首を横に振る。
「……いや。椿坂高校にターゲットがいるっていう噂があったから、しばらく神経を尖らせてたけど、違ったみたいだ」
すると、俯いた僕の視界の中にある手を、彼女の手が両手でとった。顔を上げると、星を宿したとろりとした瞳がすぐ近くにあった。
「私、お手伝いしますよ。カルミア探し」
僕はその手をそっと拒んだ。
「君は、僕とはもう会わない方がいい。相手は暗殺者なんだ。危険だよ」
「大丈夫ですよ」
ほたるさんは僕の腕に自身の腕を絡めると、にかっと歯を見せて笑う。
「ほたるさ……」
「ほら、タワーを見て」
ほたるさんがタワーをすっと指さした。その瞬間、視界の先のタワーがパンッと火花が弾けるように煌めいた。それから一泊遅れて、激しい地鳴りと爆発音が足元から耳の奥まで震わせる。
唇から、小さく悲鳴が漏れる。その間も、激しい爆発は続く。どんどんタワーが赤黒く染まっていく。黒煙が昇る。タワーを形作っていた鉄骨やらガラス片やらが、きらきらと星屑のように落ちていく。
目の奥に五年前のトラウマが過ぎる。
「どういうこと……?」
おずおずと、ほたるさんを振り返る。
「私がカルミアなんですよ」
「は……?」
思考が停止する。どういうことだ。目の前のこんなか弱い少女が、カルミア? 大量殺人者? 両親の仇?
「意味が分からない……」
わけが分からない。
頭を抱えた。
「あなたの仇は今、目の前にいるんですよ」
ほたるさんの顔からは、表情が消えていた。
「嘘……でしょ?」
「運命って、残酷ですね。千太郎くんとなら、もっと違う自分になれるかもしれないなんて思ってたのに……」
背後では、何度も爆発が繰り返している。サイレンが鳴り始め、ヘリコプターのプロペラ音がどこかから聞こえてくる。
目頭が熱くなる。
「どうして、こんなこと……!」
僕は、ほたるさんに掴みかかった。小さな身体は、僕の力にいとも簡単に押し倒される。
「生きるため」
その言葉は、すっと僕の心臓に突き刺さる。
「孤児だった私には、この道しかなかったんです」
「だからって……」
彼女の服を掴む手に力が篭もる。その瞬間、彼女はスカートの裾を捲り、太腿の内側に隠しておいたライフを僕に突き付けた。
手を離し、後退りながら息を呑む。
「私にこんな道しか示してくれなかった奴らが、大金を積んで依頼してくるんですよ。おかしいでしょう?」
「こんなこと、もうやめてよ。君は間違ってる!」
ナイフを僕に向けたまま、ほたるさんはじりじりと近付いてくる。ほたるさんは恐ろしいほどに無表情だ。
「ほたるさん……」
「もっと、千太郎くんと一緒に学園生活を送ってみたかったです……でも、これでよかったのかもしれません。千太郎くんの手で、この鎖を断ち切ってもらえるなら、本望です」
すると、彼女は僕に向けていたナイフをくるりと自分の方へ向けた。白い喉元が、こくりと上下する。その手はわずかに震えているように見えた。
「止めて!」
僕は思わず、ほたるさんの手を掴んだ。ナイフで手を切ってしまったらしく、ぴりっとした刺激が走る。けれど、そんなものは気にしない。
「止めろって言ってるだろ!」
ほんの一瞬拮抗しあった力は、すぐに崩れる。激しく揉み合った末、ぐちゃりと嫌な音がした。手に生温かい感触が広がる。じわじわと、嫌な汗が全身から噴き出した。
「そんな……ほたるさん? ほたるさん!」
ほたるさんの全体重が僕にのしかかる。青白い顔したほたるさんは、瞳を固く閉じている。
「ほたるさん……お願い、目を開けて」
泣きながら抱き締める。
「ほたるさんっ!」
彼女の手の中から、ナイフが滑り落ちる。僕はそれを手に取った。
ふっと、ロウソクの炎が消えるみたいに、僕の生命力も彼女のかすかな息とともに薄れていく。
「……すぐに、僕も行くから」
君が罪深いなら、僕も同じだ。僕は自分のために友達を見殺しにした。僕も、悪魔の子だ。だから――。
自分の心臓にナイフを突き立てる。直後、タワーが大きな音を立てて崩れ落ちた。
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