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四
カンダタは目を覚まし、手には銀の色の蜘蛛の糸をもっており、そこはちょうど、陽明門の下で雨やみを待っていました。
広い門の下には、カンダタの外に誰もいない。大きな円柱に所々剥げて丹塗りした痕があり、蟋蟀が一匹鮮やかな朱色にとまっています。陽明門が、大宮大路に面しているが、カンダタの外にも、和傘を差す住職や観光客が、二・三人はありそうなものであるが、外には誰もいない。
何故かというと、この数十年、日本では、地震とか波浪とか戦争とか饑饉とかという災いがつづいて起こった。そこで洛中もさびれひととおりではない。旧記によると、神具や仏具を打ち砕いて、その丹がついたり、金銀の泊がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたということである。
洛中ですらその始末であり、門という門も焼かれ始末で修理などは、元より誰も捨てて顧みる者がなかった。この門へその荒れ果てたのを良いことにして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引き取り手のない死人を、この万へ持ってきて、棄てて行くという習慣さえ出来た。
そこで、日の目がみえなくなると、誰でも気味を悪がって、この門の近所へは足踏みをしない事になってしまったのである。
その代わりにまた鴉が何処からか、たくさん集まって来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。殊に門の上の空が、夕焼けで赤くなるときには、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。
――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一匹も見えない。ただ、所々、石段の上に烏の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。カンタダは七段ある石の一番上の段に、洗いざらいした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
作者はさっき、「カンダタが雨やみを待っていた」と書いた。
しかし、カンダタは雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。
ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である所。
が、その主人からは、四五日前に暇を出された。
前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微すいびしていた。
いまこのカンダタが、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。
だから「カンダタが雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられたカンダタが、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。
その上、今日の空模様も少からず、この平安朝のカンタダの Sentimentalisme に影響した。
申さるの刻こくさがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。
そこでは、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして
――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから大宮大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
雨は、陽明門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑いとまはない。
選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死にをするばかりである。
そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――カンダタの考えは、何度も同じ道を低徊した揚句あげくに、やっとこの局所へ逢着した。
しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。
カンダタは、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人ぬすびとになるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
カンダタは、大きな嚔くさめをして、それから、大儀そうに立上った。
夕冷えのする京都は、もう火桶ひおけが欲しいほどの寒さである。
風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。
丹塗にぬりの柱にとまっていた蟋蟀きりぎりすも、もうどこかへ行ってしまった。
カンダタは、頸くびをちぢめながら、山吹やまぶきの汗袗かざみに重ねた、紺の襖あおの肩を高くして門のまわりを見まわした。
雨風の患うれえのない、人目にかかる惧おそれのない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。
すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子はしごが眼についた。
上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。
カンダタはそこで、腰にさげた聖柄ひじりづかの太刀たちが鞘走さやばしらないように気をつけながら、藁草履わらぞうりをはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
それから、何分かの後である。
陽明門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子ようすを窺っていた。
楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。
短い鬚の中に、赤く膿うみを持った面皰にきびのある頬である。
カンダタは、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括くくっていた。
それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと、動かしているらしい。
これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛くもの巣をかけた天上裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。
この雨の夜に、この陽明門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。
カンダタは、守宮やもりのように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。
そうして体を出来るだけ、平たいらにしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗のぞいて見た。
見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸しがいが、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。
ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。
勿論、中には女も男もまじっているらしい。
そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土を捏こねて造った人形のように、口を開あいたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。
しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖おしの如く黙っていた。
カンダタは、それらの死骸の腐爛ふらんした臭気に思わず、鼻を掩おおった。
しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
カンダタの眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲うずくまっている人間を見た。檜皮色ひわだいろの着物を着た、背の低い、痩やせた、白髪頭しらがあたまの、猿のような老婆である。
その老婆は、右の手に火をともした松の木片きぎれを持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。
髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。
カンダタは、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時ざんじは呼吸いきをするのさえ忘れていた。
旧記の記者の語を借りれば、「頭身とうしんの毛も太る」ように感じたのである。
すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱しらみをとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。
髪は手に従って抜けるらしい。
その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、カンダタの心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。
そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。
――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。
この時、誰かがこのカンダタに、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死うえじにをするか盗人ぬすびとになるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らくカンダタは、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。
それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片きぎれのように、勢いよく燃え上り出していたのである。
カンダタには、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。
従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。
しかしカンダタにとっては、この雨の夜に、この陽明門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。
勿論、カンダタは、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
そこで、カンダタは、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。
そうして聖柄ひじりづかの太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。
老婆は、一目カンダタを見ると、まるで弩いしゆみにでも弾はじかれたように、飛び上った。
「おのれ、どこへ行く。」
カンダタは、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞ふさいで、こう罵ののしった。老婆は、それでもカンダタをつきのけて行こうとする。
カンダタはまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。
しかし勝敗は、はじめからわかっている。
カンダタはとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」
カンダタは、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘さやを払って、白い鋼はがねの色をその眼の前へつきつけた。
けれども、老婆は黙っている。
両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球が眶の外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗黙っている。
これを見ると、カンダタは始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。
そうしてこの意識は、いままでけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。
後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。
そこで、カンダタは、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
「己おれは検非違使けびいしの庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄なわをかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」
すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとそのカンダタの顔を見守った。
眶の赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。
それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。
細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。
その時、その喉から、鴉からすの啼くような声が、喘あえぎ喘ぎ、カンダタの耳へ伝わって来た。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘かずらにしようと思うたのじゃ。」
カンダタは、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。
そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。
すると、その気色けしきが、先方へも通じたのであろう。
老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇ひきのつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
「成程な、死人しびとの髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸しすんばかりずつに切って干したのを、干魚ほしうおだと云うて、太刀帯たてわきの陣へ売りに往いんだわ。疫病えやみにかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
老婆は、大体こんな意味の事を云った。
カンダタは、太刀を鞘さやにおさめて、その太刀の柄つかを左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。
勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰にきびを気にしながら、聞いているのである。
しかし、これを聞いている中に、カンダタの心には、ある勇気が生まれて来た。
それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。
そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。
カンダタは、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。
その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」
老婆の話がおわると、カンダタは嘲るような声で念を押した。
そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰にきびから離して、老婆の襟上えりがみをつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、己おれが引剥ひはぎをしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
カンダタは、老婆の着物を剥ぎとろうとした。
が、思い留まり、光沢のある蜘蛛の糸をポケットから取り出し、じっと眺め狂気に取り憑かれていたかつての自分を思い出していた。
ある欠けていた勇気は、違った決断を下し光沢の銀の糸から鬘を編むことにした。
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