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俺の前では何もなかったふりを演じ続けた彼女が、ついに打ち明けてきた。
今まで受けてきた嫌がらせのこと。
心も身体も壊れかけていること。
それでも協力できて嬉しかったこと。
以前から、ずっと俺が好きだったこと。
涙ながらに話す彼女は、とっくに限界を超えていたのだろう。
鈍感な俺は守られていることに気づかず、虚構の平和に甘んじてしまっていた。
「気づいたときには手遅れで……できることは、もう土下座と縁を切ることくらいしか残ってなかった」
俺と関わるのをやめた途端、攻撃はぱたりと止んだそうだ。
しかしそれ以来、彼女は電車に乗れなくなった。
ならば今度は俺が支えたいと申し出るも叶わない。
もはや彼女にとって、俺そのものがトラウマだった。
「吹っ切れたよ。怖くて仕方なかったはずのストーカーに、心の底から腹が立った。少なくともあの子にしたことを後悔させてやらなきゃ気が済まない」
『お兄ちゃん……』
気遣わしげな沈黙の向こうで、かすかにサイレンが鳴っていた。
隙間を埋めるように俺は続ける。
「攻守交替ってやつだ。幸い、あの女ならいつでも俺の近くをうろついてる。見つけるのは簡単だった」
復讐心を燃料に、今度は俺が追いかけた。
しかし追いつかない。
女とは思えぬ脚力で、古いアパートの敷地へと逃げていく。
すっかり見失った俺は、薄暗いエントランスへと迷わず進んだ。
「……で、気を失った。一瞬だ」
視界の端で火花が散った。
物陰に隠れていた女にスタンガンを当てられたらしい。
「気づいたら女の部屋で伸びてた。あんだけ息巻いたくせに、情けないよな」
『ううん、そんなこと……』
そのとき、俺は初めて間近で赤い女を見た。
しかし本当に女なのかは今でも分からない。
薄汚れた赤いワンピースを着てはいたが、決して小柄ではない俺を部屋まで運び込めたのだ。
見れば、細長い手足は虫のように筋張って頑強そうだった。
性別どころか年齢さえ分からない『何か』。
魚の臓物のような生臭いにおいが、今でも鼻腔にこびりついている。
「高くも低くもない……とにかくゾッとする声で言われたよ。愛してるって」
スマホを握る手に力がこもる。
これほどまでに身勝手な行為が愛だなどと、よくも思い込めたものだ。
「だから怒鳴りつけてやった。今までの怒りを全部ぶちまけて、お前と恋人になるくらいなら死んだ方がマシだと言ってやった。そしたらどうなったと思う? あいつ、俺に金づちを振り下ろしたんだ」
避け切れず左膝に当たった。
骨の砕ける痛みに動きが止まったところで、再度金づちが振り下ろされる。
今度こそ、俺は情けない悲鳴を上げた。
「両脚を叩き折ったところで、女はポリタンクとライターを出してきた。あとは分かるよな?」
すっかり怯え切った妹の返事を待たずに結論を言う。
「正しくは無理心中だ。殺人未遂だよ」
鼻をすする音がして、妹は震えるような息を吐いた。
怖がらせてしまっただろうが、自殺未遂の疑いを解くためには事実を打ち明けるしかない。
『その……、相手の人は生きてるの?』
言葉を選んでいるのだろう、しばらくの沈黙したのちにようやく口を開いた。
「さすがに死んだんじゃないかな。俺は倒れてたせいで髪に灯油が掛からなかったし、手は自由だったから、すぐに灯油まみれの衣服を脱ぎ捨てられたんだ。でも、向こうはそうじゃなかった」
ベッドサイドに目を向けると、棚の上にリモコンが置かれていた。
俺の事件についての続報はあるだろうか。
試しにテレビをつけると、ちょうど生真面目な顔のアナウンサーが今日のニュースを伝えているところだった。
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