漱石の猫

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  私は…。 刹那、突き動かされるように戸口へ向かった。 いつもは閉ざされているであろう扉は、簡単に開かれた。 彼女は振り返ることなく、走って走って走って行った。 あてど無く。 誰も追いかけては来なかった。 そのうちお腹が空いて、優しく声をかけてくれた男に野良猫のようについて行った。 結局その男も彼女の身体を当たり前のように抱いた。 彼女は折檻されるようになり、痛みに耐えきれなくなって逃げ出した。 走って走って走って、気づいたら真夜中の誰もいない公園にいた。 彼女はもう、一歩も動けなくなっていた。 ネジの切れた人形みたいに。 それからの記憶はぼんやりとしていて、どこでどうしたものかわからないうちに彼の部屋で身の上話しをしていた。 久しく聞いていない自分の声が、自分の声なのかも怪しかった。 誰かが、彼女の事を話して聞かせているようにも思えた。 何が本当かわからなかったけれど、彼女の口から言葉は次々と溢れていった。 「一緒に死のうか……」 温かい彼の手が、彼女の手を握り締めながらくれた言葉に彼女はハッとして顔をあげた。 あ…彼が私の……。 主人に自殺するのが賢明であると考えてくれた、まだ名の無い猫。 彼女は嘘偽りの無い、満面の笑みで微笑み返した。 一緒に死のうと言ってくれた彼に。 ふたりが離れないようにしっかりと手を握り返してくれる彼。 初めて手で人と繋がれた。 その温かい彼の手に導かれて、大きく足を踏み出す。 その刹那、彼の手は振り払われていた。 彼女は目を大きく開いて、口を大きく開いている。 「あ…ああ……ごめ……ごめんなさい」 彼女は混乱する頭で、暗闇に消えてゆこうとする彼を見ていた。 彼はそんな彼女に向かって微笑んだ。
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