漱石の猫

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 彼女は人である。  彼女の名はまだ無い。 彼女は中学生の時に、交通事故で両親を亡くした。 遅くできたひとり娘とあって、両親に大層可愛がって育てられてきた明るく素直な子だった。 突然ひとり残された彼女は母方の叔父が、引き取ることになった。 叔父は資産家で、作家としてもそこそこ名の通った人物であった。 叔父の書斎は、母が好きだった夏目や芥川といった沢山の本が並ぶ少しほこりの匂いがする薄暗い部屋だった。 彼女は母から、この叔父に借りた本はどれもとても面白かったと聞かされていた。 まだひとり身の叔父と彼女の母は、母が若くして身籠り結婚するまで近所に住んでいて、この書斎は母の図書室のようだったという。 叔父が執筆する横で、母はちょこんと座ってそのぷっくりと膨らんだ唇を突き出しながら眉をひそめたり笑いをこらえたりしながら本を読んでいたという。 彼女を引き取った後も、叔父はひとり身のまま自由に執筆をして過ごしていた。 時折編集者が来たりするほどで、叔父と彼女の二人だけの静かな暮らしが続いていった。 そんなわけだから、叔父はどう女児を育てて良いのか分からなかったので手当たり次第に彼女の望むままにお金をだした。 そうして月日が経ちふと気がつくと、目の前の少女は艶やかな白い肌に穏やかそうな大人びた眼差しをする女に育っていた。 彼女は母に似て美しく、高校に入ったばかりだというのに清楚な色気を漂わせ始めていた。 ある日、彼女の口から交際相手の話しが出ると我が事のようによく育ったと嬉しく思えた。 ところがその夜、いつものように書斎で執筆する叔父の横で彼女の母のように本を読む彼女のぷっくりとした唇が、月明かりのもとで妖艶に揺らめいた。 あとはよく覚えていない。 彼女は抵抗しただろう、泣き叫んだだろう。 それから彼女の瑞々しく白い裸体は、叔父の物になった。 叔父と彼女の二人だけの静かな生活は、ただ性の営みとともに続いていった。 彼女は笑わなくなった。 彼女は口を開かなくなった。 彼女はまったく外に出なくなった。 毎日貪るように彼女の身体に叔父は己を注いだが、彼女は妊娠する事なくきちんと月のものが来た。 その度に叔父は絶望し、また飽くことなく彼女を抱いた。 彼女は抵抗も見せず、それ以外の時間はかわらず本を読んだり叔父の食事の支度をした。 彼女は機械のように毎日を繰り返していった。 何年かすると、そんな彼女と叔父の関係に気づいた編集者が彼女の身体を欲しがるようになった。 いつの間にか彼女は叔父の書斎で叔父に抱かれ、台所で編集者に抱かれるようになった。 彼女は抵抗しなかった。 手を繋ぐような気軽さで、男達と繋がった。 そのうち叔父に知れるところとなると、叔父は飽き飽きしたと言って彼女を手放した。 それはそれはあっさりと、あまりにも呆気なく彼女を手放した。 それから原稿待ちの編集者や、興味本位の文壇連中が時々やってきては彼女と繋がっていった。 誰も彼女の名を聞かず、誰も彼女の名を呼ぶことのない日々。 そんな彼女が、ある日手にした本の1行が目に飛び込む。   吾輩は猫である。名前はまだ無い。
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