父王の愚かな選択

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父王の愚かな選択

「レーリオ様。わたくし……わたくし……」  部屋に入ったのと同時に先ほど渡された小瓶をぎゅっと握る。「エミリー」と囁くように名を呼んで近づいてくるレーリオにエミリーは扉に張りついて、大きく首を横に振った。 「待ってください。わたくし、まだ心の準備が……」 「大丈夫。怖いことは何もない。エミリーを泣かせるようなことは絶対にしないから」  そう言ったレーリオは震えているエミリーを抱き上げ、ベッドへ運んだ。お互いベッドに腰掛けると、レーリオがエミリーの額や瞼、頬や唇に何度も触れるだけの口付けを落とす。 「エミリー、貴方の身も心もすべて私にくれない? 必ず幸せにすると誓うから」  身も心も……  その言葉にどくんと心臓が跳ねた。エミリーは息を呑んで、レーリオを見つめる。  今のまま王女として生きても、いつかは好きでもない人に嫁がされるだけ。それが王女として生まれた役目なのかもしれないが、そんなものは捨ててしまって、この人と共に生きたい。切にそう願ってしまった。 (平民である彼を好きになった時点で、わたくしの心はもう決まっていたのです)  エミリーは強張っていた体から力を抜いた。 「はい、もちろんです。わたくしのすべてをもらってくださいませ」 「ありがとう」  力強く抱き締めてくれるレーリオにエミリーも抱きつき、彼の背に手をまわす。そして、「でも、その前に話があるのです」と切り出した。 「ずっと黙っていたのですが、わたくし――実はこの国の王女なのです」 「うん、知っているよ」 「え?」  レーリオが驚きもせずに頷くから、エミリーのほうが驚いてしまった。口をぽかんと開けて唖然としていると、レーリオがエミリーの頬に手を添え微笑んだ。 「最初から知っていたよ。エミリーの話し方や振る舞いは平民の娘のそれではない。エミリーは分からないかもしれないけど、どこからどう見てもお姫様だよ。多分、下にいる皆もエミリーのことを貴族のお忍びだとか思っているはずだよ」 「う、嘘……」  少し困ったように笑ったレーリオに、言葉を失ってしまう。すると、彼の手がエミリーの前に差し出された。その手を取ると、ぐいっと引き寄せられる。 「エミリー、少しだけ待っていて。今、貴方を迎えるための準備をしているんだ。準備が終われば、必ずエミリーを私の妻に迎えると約束するよ。結婚しよう」 (結婚……!) 「は、はい! 嬉しい。嬉しいです。レーリオ様! 愛しています!」 「私も愛しているよ」  泣きながら抱きつくと、よしよしと頭を撫でられる。出会った時から、ずっと大好きな人。その人のものにしてもらえる。こんなにも嬉しいことはない。 「わ、わたくし、王女としての身分を捨てます。すべてを捨てて、一人のエミリーとなって貴方の妻になります。……わたくしから王室を切り離せば、何も持たぬただの無力な娘ですが、それでも愛してくださいますか?」 「もちろんだよ。むしろ、そんなしがらみいらないよ。エミリーはその身ひとつで嫁いで来てくれればいい」  力強く抱き締めてくれる彼に――全身が高揚感に包まれる。とくんとくんと胸が高鳴って、この上ない幸せがエミリーの心を満たした。 「ねぇ、エミリー。だから、エミリーを抱くのは、諸々の準備が終わってからにするよ。それまでに覚悟をしておいて」 「はい」  こくんと頷くと、「いい子だね」と言ったレーリオの唇が手の甲に落ちてきた。そこから、じんわりと熱が内側に染み込んでくる。  エミリーはその後、レーリオと色々な話をして、ゆっくりと二人きりで過ごした。日も落ちてきた頃、また明日会うことを約束して王宮へ戻る。 (レーリオ様に嫁ぐ準備を、わたくしもしておかないと……)  生きていくにはお金がいる。今のうちにドレスや宝石類をお金に換えておこう。そう思ったエミリーは自室から繋がっている衣装部屋に入った。 「エミリー!」 「お母様?」  衣装部屋で何を売ろうか見繕っていると、女官長と自分の女官たちを従えた母が血相を変えて飛び込んでくる。算段がバレたのかとひやっとし、手に持っている装飾品を慌てて後ろ手に隠した。すると、母が泣きながら抱き締めてくる。 (お母様……?) 「陛下が……お父様が、隣国ディフェンデレに攻め入ってしまったの」 「えっ?」  一瞬鈍器で頭を殴られたような衝撃が走って、言われたことが理解できなかった。  ディフェンデレは母の生まれた国だ。かつては啀み合っていたが、母がこの国に嫁いだことにより両国の間に強固な同盟が築かれたはずだ。  困惑しながら皆を見ると、母も女官たちも泣いていた。 (嘘では、ないの?) 「で、ですが、ディフェンデレはお母様の生国なのに……。なぜ、今になって同盟を破棄するようなことを」  声が震える。  母は泣きながら、「お父様は狂ってしまったのよ」と小さく首を横に振った。 「……現在のディフェンデレの王太子殿下が貴方に求婚したの」 「わたくしに?」 「その書状を受け取った途端、陛下が捧げた人質を取り返すつもりかと怒ったのよ。わたくしも重臣たちも皆で必死になって説得したけれど、聞き入れてはくれなかったわ。あの人にはもう何も通じない。何も伝わらないのよ」  そう言って悔しそうに泣く母の震えた背にそっと手をまわす。  捧げた人質? 父は母をそんなふうに思っていたのか。長年連れ添った妻を何かあった時に使える人質だと―― (最低すぎます、お父様……)  母という人質を得たのに、ペルデレの王女を彼の国に嫁がせれば、我が国も同様に人質を差し出すことになる。父は舞い込んできた縁談を同盟の強化ではなく、愚かにもそう解釈したのだ。 「わたくしの生まれた国はとても強大だわ。残念だけれどペルデレに勝ち目なんてないのよ。なのに、あの愚王は何も分かっていない」 「お母様……」  そう呟いた母はエミリーから体を離し、じっと見据えた。その覚悟を決めたような表情に自分が考えている以上に事態が深刻なのだと自覚させられる。 「エミリー、敗戦国の王女ほど惨めなものはないわ。わたくしは貴方がそんな想いをするのはいやよ。貴方のお祖父様であるプロテッジェレ公爵は、わたくしが嫁ぐ時に何かあれば逃げてこいと言ってくれていたの。だから、ディフェンデレのプロテッジェレ領に逃げなさい」 「え? で、では、お母様とお兄様も一緒に……」 「いいえ。腐ってもわたくしはこの国の王妃。エミーディオは王太子だわ。最後まで民を守らねばならないの」 「いや! そんなこと、絶対にいやです! なら、わたくしもお母様とお兄様と一緒にこの国に残ります」  母の言葉に涙があふれてくる。泣きじゃくりながら何度も首を横に振る。縋るように母にしがみついたが、母は厳しい表情を崩さなかった。 「さぁ、貴方たち。早くエミリーに支度をさせなさい。転移魔法では密入国を禁ずる結界に阻まれて入国ができないから、国境付近まで転移しあとは馬で移動するのよ。そこまで行けばプロテッジェレ公爵が迎えを出してくれる手筈だから」 「いやっ! いやです!」 「エミリー様。聞き分けてくださいませ。時間がないのです。今ならエミリー様はプロテッジェレ公爵閣下に庇護され、そちらから王太子殿下に嫁ぐことができます。どうか聞き分けてくださいませ」  駄々っ子のように泣き喚いているエミリーを女官長が宥める。そして深々と頭を下げた。 (女官長……)  とても厳しく、忙しい母の代わりにいつも叱ってくれた女官長。そんな彼女が泣きながら頭を下げている。 「殿下。私たちはついていくので、道中お守りいたします」 「皆……」  女官長と自分付きの女官たちの言葉にエミリーは覚悟を決めるしかなかった。  自分は王女なのだ。  恋を追い求めてはいけない。無事に祖父のもとへ辿り着き、ディフェンデレの王太子妃になれば、母も民の命も救うことができる。 (レーリオ様、許してください。わたくしは王女として生きることを選びます)  泣き止み、王女として姿勢を正し胸を張る。そして真っ直ぐと母の顔を見つめた。 「分かりました。わたくし、ディフェンデレの王太子殿下に嫁ぎます。そして、必ずこの戦争を止めてみせます。絶対に助け出しますから、それまでどうか耐えてください」 「おお、エミリー」  母と女官長に抱きつくと、二人が力強く抱き締めてくれる。 「そうはさせぬぞ」 「お父様……!」  その途端、父が近衛兵を引き連れて部屋に入ってきた。そして女官長と女官たちを次々に殺していく。 「やめて! やめてください! どうしてこんなことをするのですか? お父様! 彼女たちはわたくしのために……っ!」  近衛兵を止めようとするが、父により弾き飛ばされてしまう。母が名を呼び駆け寄ろうとしたが、捕らえられてしまった。 (そんな、どうして……?)  戦争を起こし、国と民を犠牲にし、そして尚――仕えてくれている者を殺す。そこまでして嫁がせたくないのか。  父は狂ってしまったと言った母の言葉が頭の中に響く。  血溜まりの中で、もう息絶えてしまった皆の骸に手を伸ばした。が、父に手を踏まれ阻まれてしまう。 「愚かな王妃とエミリーを魔力を封じる枷をつけて自室にでも閉じ込めておけ」 「お父様!」  何度叫んでも顔色ひとつ変えない。父の心には何も届かなかった。  ああ、バチが当たったのだ。恋に浮かれて王女としての責務を忘れ、国や民――家族を捨て、愛しい人の手を取ろうとしたから天罰が下ったのだ。
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