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彼は少しずつ距離を縮めるように、こちらに向かって近づいてきた。
どんな人なのだろう、とわたしはどきどきしていた。一方で、はっとするほど整いすぎた顔立ちの通り、ひんやりと冷たい目をした怖い人だったらどうしようと考える。
その時は逃げるしか、ないよね……。
そんな答えしか思いつかないまま、わたしはざわめく胸を抱えながら彼から目を離せずにいた。彼に相対した瞬間のことを思ったら、今すぐこの場所から逃げ出したいような気持ちになったが、わたしの足はこの場に縫い付けられたかのように動かせない。何かに掴まってでもいないと、今ここに自分がいること自体が曖昧になってしまいそうな不安が急に襲ってきて、わたしは縋るようにバッグの端をギュッと握りしめた。
緊張するわたしの目に徐々にはっきりと見えてきた彼は、和服姿だった。着物のことは無知で正しい名称が分からないのだが、こういうのは「着流し」とかいうのだったか。時代劇などで見るような、武士が袴を着けていない時の格好によく似ていた。若い男性のこういう姿は夏の花火大会くらいでしか見ないから、わたしの目にはかなり新鮮に映ったし、和服を身に着けた彼はこの風景の中にとてもよくなじんで見えた。
映画か何かのワンシーンでも見ているようだ――。
ふとそんなことを思ったが、同時にわたしは心もとない気持ちになった。自分こそがその非現実的な世界の中に、いつの間にか取り込まれてしまっているのではないかという思いに囚われて、小さく身震いする。
そんなわたしを現実に引き戻す声が、間近で聞こえた。
「どこから来たの?」
低く響くその声に耳を優しく撫でられて、わたしは我に返った。先ほどまでは確かにあったはずのわたしへの警戒心は、そこにはもう感じ取れない。
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