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是周はわたしの方へ身を乗り出した。
彼の熱い息が耳にかかり、わたしの全身はかっと熱くなった。
「そんなこと、今さら聞かないで下さい」
「聞きたい」
そう言いながら彼は片手を突いて、わたしに口づけしようとした。その時、彼が小さな声をもらした。
「っつ」
偶然そこにあった石の角に触れて、指を軽く切ったようだった。
「悪さをしようとしたからかな」
そんな軽口をたたく彼に苦笑しながら、わたしはハンカチを取り出した。
「大丈夫ですか?」
傷ついた彼の指に、じわりと血が浮いていた。
それを拭きとろうとするわたしを、彼は笑って止める。
「たいしたことはないよ」
「でも……」
「大丈夫」
是周はわたしを安心させるようにもう一度そう言うと、傷になった部分を口に含んだ。しばらくしてから唇を離したが、すぐさまはっとした表情を浮かべてその指を隠すように手を組んだ。
それはわたしの目に見えていた。たった一瞬だったからこそ、その残像は目に焼きついた。確かにあったはずの傷口が、綺麗になくなっている様が。
わたしはごくりと生唾を飲んだ。
目の錯覚だと思い込もうとした。本当はとても小さな傷だったから、消えたように見えただけだと思おうとした。
そうだ、何も見なかった、気づかなかったことにしよう。そうすれば、是周との時間を守ることができるはずだから――。
わたしは考えることを放棄した。押し込めていたはずの疑問が、次々と浮かび上がってこないように。
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