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54 パン
陽太は買ったばかりのパンを次々と並べていく。未だ浮かれた心地の幸平は、クリームパンへぼんやり視線を落とし、「あ」と思い出した。
陽太はすぐに顔を上げた。
「どうした?」
「えっと……」
「何? クリームパン、嫌い?」
「違う」
若干陽太が心配そうにするので、慌てて首を振る。
思い出したのは、一ヶ月前程の出来事だ。
「陽太くん、この間もパン持ってきてくれたよね」
「え? ……あー」
「貰い物って言ってたけど、俺の部屋に置き忘れてったでしょ」
「あー、そうかも」
一ヶ月ほど前、共に居酒屋へ向かったその前に、陽太は幸平の部屋に訪れていた。彼は「もらった」とパンを持ってきたが、あれを幸平の部屋に置き忘れていったのだ。
あの時の幸平は、パンをどうするかさえも聞けなかった。
「ごめん、あん時それどころじゃなくて忘れてた。あのパン、どうした?」
陽太は首をちょこっとだけ傾ける。
幸平は申し訳ない思いでいっぱいになりながらも、正直に白状した。
「食べちゃった」
「……」
「腐らせるのもよくないなと思って、食べちゃった」
「へぇ、そうなんだ」
「ごめん。陽太くんがもらったものなのに」
陽太はすると、数秒黙り込んで、それから僅かに照れたような顔を見せる。
「いや、それでいい。俺がコウちゃんと食べようと思って買ってきただけだし」
「……え?」
「コウちゃんが食べてくれるのが一番いい。そのために買ってきたから。第一、俺が置き忘れたのが悪いしな」
「そっか……そうだったんだ」
「つうか、今のいいよな」
「え?」
「食べちゃった、って言い方なんかいい。ちゃった、がいい。やっぱいいな……前から思ってたけど、コウちゃんの喋り方優しくて好き」
「……」
「コウちゃんと話してると俺まで優しくなった感じになる。で、クリームパン好きなんだ? コウちゃん前は、揚げパン好きだったよな」
「あ、うん、好き」
「じゃあ、甘いのが好き? 選んで」
いつのまにかテーブルにはパンが陳列されていた。それも、幸平の目の前に。
幸平は整列するパンを眺めながら考えた。
一ヶ月前のアレは、陽太が幸平のために買ってきてくれていたのか……。
またしても明らかになる事実は過去の記憶に介入し、もしやあの時のプリンや、あの時の焼き鳥、あの時のたこ焼きも……と芋づる式に繋がっていく。
頭の中で連結されていく記憶に呆然としつつも、幸平はメロンパンを選んだ。
陽太は大いに喜んだ。
「メロンパン選ぶんだ。ドラフト式にしよう。次点も選んで」
「ドラフトだったら陽太くんも一位を選ばないと」
「コウちゃんオンリードラフトでいこう」
それはルールが崩壊している気がする。けれど陽太が楽しそうなので、幸平は突っ込まない。
「次に食べたかったのどれ?」
「じゃあ、あんぱん」
「ふぅん」
陽太は隣のシンプルなミルクパンを手に取った。たまに齧りながら、喋り続けている。
「今日は一緒にいたい。たくさん話したいことがあるから」
「うん」
「それで、明日からは沢山出かけたい」
「えっ」
「え?」
思わず声を上げると、陽太も目を丸くした。
驚いた幸平に驚いているのだ。幸平は単純にびっくりしただけだが、しかし陽太はごく僅かに、傷付いたような顔をする。他人が見たら「そうか?」と思われるかもしれないが幸平には分かる。
陽太は今、ショックを受けている。幸平はすぐに「陽太くん」と声をかける。
「嫌とかじゃないよ。そうじゃなくて……陽太くんが、そういうの嫌かなって」
「は?」
陽太はさらに目を見開いた。
「俺が? なん、そん、嫌じゃない」
「そうなの?」
「なんで嫌って思った?」
あまりに必死なので、幸平は素直に伝えた。ここまで来ると、もう分かる。陽太は何でも聞いてくれるのだから、幸平も沢山話さなければ、と。
白状したのは過去の盗み聞きについてだ。高校の卒業式の後、幸平は陽太に告白した。連絡先を交換してその場を去ったが、やっぱり一緒にご飯が食べたいな、と思って誘うため来た道を引き返したのだ。
そこで、聞いてしまった。陽太が公園で誰かと話していた時の言葉を。
——『映画館とかよくデートに行くっていうけど、普通に嫌じゃね? 隣にずっといんのキツい——……』
「違う」
まだ「陽太くんは映画館とか外でのデートしたくないのかなって思って」と説明をしている最中だった。
陽太は即座に遮った。覚えがあったのだろう、強く断言してくる。
「そういう意味じゃない」
「え、じゃあどういう」
「緊張するから」
「へ?」
「映画館は、隣にずっと好きな子がいると緊張するから嫌だって話」
「……」
「あん時の俺には無理だった」
す、好きな子って言った……。
幸平は無言で照れる。陽太は話し続けている。
「そう、嫌っつうか、無理じゃねぇの? って懐疑ね。初心者デートコースじゃねぇと思う」
「なるほど……そういう……」
「ごめん。俺、いつも余計なこと言うからコウちゃんのこと沢山傷つけてそう」
「ううん。俺の方こそ勝手に思い込んじゃうとこあるから」
「コウちゃんは何も悪くない」
陽太は真顔で言い切って、「映画館も本当は行きたい」と付け足した。
「今なら行ける」
「まぁ、徐々に、慣らしていこっか」
幸平が言うと、陽太はふわっと微笑んだ。
幼馴染ながら思うのは、陽太はとても美形だということ。可愛いというよりクール系の美人で、黙っていると迫力がある。
けれどたった今こぼす微笑みは、贔屓目抜きで『可愛い』笑顔なんじゃないか。
陽太は可愛いままで言った。
「コウちゃんがいいなら、色んなところに行きたいし、お酒だって飲みに行きたい」
「陽太くん、お酒いいの?」
「うん、もう平気そうだから」
陽太はなぜか満足げに目を細めた。
平気、とはどういう意味だろう? お酒の特訓でもしたのかな。お酒の特訓をする陽太くん、可愛いな。
のほほんと考えながらメロンパンを合間合間に咥える幸平と違って、陽太はミルクパンをちっとも進めずに喋り続けている。
でもこれは、幸平も知っている。子供の頃の陽太は、幸平よりも沢山話す子だった。
これが元の陽太なのだろう。皆の前でどうなのかは分からない。少なくとも、高校時代の陽太は皆から口数の少ない男だと思われていた。
だから本当の陽太を知るのは、自分だけ。そう思うと優越感が沸き、メロンパン以上に胸がいっぱいになる自分は浅はかだろうか。
あぁでも、親友の関謙人君の前では話すかもしれないな。
……うーん。
これが、嫉妬という奴?
自覚すると胸がざわざわして、メロンパンを食べる気がなくなってくる。陽太をよく知る人物が、たとえ友達であろうと自分以外にもいることを思うと、瞬く間に食が進まなくなる。こうして陽太と向かい合えたことで改めて向き合えた感情だった。今までの自分は、嫉妬するのも烏滸がましいと思っていたから。
もう嫉妬、してもいいんだよね。……恋人なのだから。
また心の活力が満ちてきた。嫉妬は負の感情と聞くが、こうして嬉しくなるのは変なのだろうか? 何にせよまた、メロンパンを食べる気が湧いてくる。
「あとさ、コウちゃん。他にも確認したいことがあんだけど」
当の陽太はただひたすらに喋り、問いかけてくる。今朝からそのスタンスは一定だ。
「何?」
「昨日のこと。昨日っつうか、一昨日かな。さっき言った通り、携帯壊してたからメッセージ受け取れてなくてコウちゃんの連絡見れなかった。ごめん」
「また謝った。もう謝んの禁止」
「ごめ……あー。うん。はい……」
待ち合わせにやってこれなかった件に関しては、昨日のアパート事件後に平謝りされた。
確かに陽太を一人で待ち続けた夜を思うとまだ、強く胸を掴まれたように苦しくなる。けれど、陽太に非は一切ないし、幸平はその苦しさに意味を見出さない。
事実としてあの夜はとても悲しくて、辛かった。あの辛さはきっと心に残って消えはしないが、だからと言って今も同じ意味を持つとは限らない。
あの夜に感じた身も張り裂けるほどの悲しみは過去のものであり、それは今の悲しみではない。
だって今の幸平は幸せなのだ。心はパステル色の幸福で満ち満ちている。
とはいえ陽太は後悔した。あまりにも申し訳なさそうに何度も謝るので、幸平は『ごめん』を封じたのだ。
今、『ごめん』の言葉を失った陽太は苦悩の表情で、代替する何かを必死に探している。
苦慮の末に口にしたのは、
「コウちゃん、好きだよ……それでさ、昨日の」
「……えっ? 今のは!?」
『ごめん』の代わりが『好き』!?
動揺する幸平に対して陽太は真顔で右手を挙げた。
「コウちゃん、一回聞いて」
「俺が話の腰を折ったみたいになってる?」
「一回聞いて欲しい。昨日言えなかったことがある」
「な、何?」
「コウちゃんが昨日の朝に見た女って——……」
と、陽太が言い掛けたところで部屋のチャイムが鳴った。
二人して動きを止める。
先に反応したのは、陽太だった。
「ごめん、誰か来た」
「大丈夫?」
「は? あぁ、芹澤? 無いと思う」
陽太は軽く告げて腰を上げた。扉へ向かったが、するとすぐに陽太の、
「は? 何で?」
と声が届いた。
困惑はしているが、威嚇はない。幸平は不思議に思って立ち上がり、廊下へ出てみる。
するとそこには、
「——あれ? あなた……」
「もしかして幸平くん?」女性と目が合う。彼女は驚いたように幸平の名を呼んだ。
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